伝習録 / 黄省曾録
劉君亮要在山中靜坐。先生曰:「汝若以厭外物之心去求之靜,是反養成一個驕惰之氣了;汝若不厭外物,復於靜處涵養,卻好。」
新字:劉君亮要在山中静坐。先生曰:「汝若以厭外物之心去求之静,是反養成一個驕惰之気了;汝若不厭外物,復於静処涵養,却好。」
書き下し
劉君亮、山中に在りて静坐せんと要す。先生曰く、「汝、若し外物を厭うの心を以て去きて之を静に求めば、是れ反りて一個の驕惰の気を養成し了らん。汝、若し外物を厭わずして、復た静処に於て涵養せば、却って好し」と。
現代語訳
劉君亮が山中で静坐しようとした。先生は「もし外物を嫌う心で静けさを求めれば、かえって驕り怠る気を養ってしまう。もし外物を嫌わずに、静かな所で養うなら、それはよい」と言われた。
解説
同じ行為でも、その根底にある動機によって結果は大きく変わると説かれています。例えば、静かな環境を求める時、外の世界を「嫌って」逃げるように求めるのか、それとも外の世界を受け入れた上で、内面の涵養のために静けさを求めるのか。前者の動機では、かえって傲慢さや怠惰な心が育ってしまう可能性があります。行動の裏にある「なぜそうするのか」という動機を深く見つめることの重要性を教えてくれます。
この章句が説くこと
汝若以厭外物之心去求之静是反養成一個驕惰之気了
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