伝習録 / 黄省曾録
問:「『逝者如斯』,是說自家心性活潑潑地否?」先生曰:「然。須要時時用致良知的功夫,方才活潑潑地,方才與他川水一般;若須臾間斷,便與天地不相似。此是學問極至處,聖人也只如此。」
新字:問:「『逝者如斯』,是説自家心性活溌溌地否?」先生曰:「然。須要時時用致良知的功夫,方才活溌溌地,方才与他川水一般;若須臾間断,便与天地不相似。此是学問極至処,聖人也只如此。」
書き下し
問う、「『逝く者は斯くの如きか』は、是れ自家の心性の活潑潑地なるを説くや否や」と。先生曰く、「然り。須らく時時に致良知の功夫を用うるを要して、方纔(はじ)めて活潑潑地なり。方纔めて他の川水と一般なり。若し須臾も間断せば、便ち天地と相い似ず。此れは是れ学問の極至の処なり。聖人も也(また)只だ此くの如し」と。
現代語訳
問うた。「『行く者はこのようだ』とは、自分の心性が生き生きとしていることを言うのですか」。先生は「そうだ。常に致良知の工夫を用いて、初めて生き生きとする。初めて川の水と同じになる。もし一瞬でも途切れれば、天地と似なくなる。これが学問の極致だ。聖人もこうであるだけだ」と言われた。
解説
「致良知」の工夫を常に続けることによって、心は川の水のように生き生きと流れ続けると説かれています。これは、特別な修行や境地を指すのではなく、日々の生活の中で良心に従い続けることの大切さを示唆しています。たとえ一瞬でもその努力が途切れれば、心の活動は滞り、天地の自然な流れと隔たってしまう。学問の極致とは、特別なことではなく、この「途切れない継続」そのものにあると教えてくれます。
この章句が説くこと
須要時時用致良知的功夫方才活潑潑地方才活溌溌地
関連する章句
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伝習録・黄以方録問う、「先儒は『鳶飛び』『魚躍る』は、『必ず事とすること有り』と同じく一に活潑潑地なりと謂う」と。先生曰く、「亦た是なり。天地の間の活潑潑地は、此の理に非ざる無し。便ち是れ吾が良知の流行して息まざるなり。『良知を致す』は便ち是れ『必ず事とすること有り』の功夫なり。此の理は惟だ離るべからざるのみに非ず、実に亦た得て離れざるなり。往くとして道に非ざる無く、往くとして工夫に非ざる無し」と。
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伝習録・黄省曾録問う、「聖人の生知・安行は、是れ自然の的なり。如何ぞ甚(なん)の功夫か有らん」と。先生曰く、「知・行の二字は、即ち是れ功夫なり。但だ浅深難易の殊有るのみ。良知は原と是れ精精明明的なり。親に孝せんと欲するが如きは、生知・安行的は只だ是れ此の良知に依りて実落に孝を尽くすのみ。学知・利行の者は只だ是れ時時に省覚し、務めて此の良知に依りて孝を尽くさんことを要するのみ。困知・勉行の者に至りては、蔽錮すること已に深し。此の良知に依りて去きて孝せんことを要すと雖も、又た私欲の阻む所と為る。是を以て能わず。必ず須らく人一たびせば己は百たびし、人十たびせば己は千たびするの功を加えて、方に能く此の真知に依りて以て其の孝を尽くすべし。聖人は是れ生知・安行なりと雖も、然れども其の心は敢えて自ら是とせず。肯えて困知・勉行の功夫を做す。困知・勉行的は却って生知・安行の事を做さんことを思量せんと要す。怎生(いかん)ぞ成し得んや」と。
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伝習録・黄以方録黄以方問う、「『博く文を学ぶ』は事に随いて此の天理を存するを学ぶと為す。然らば則ち『行いて余力有らば、則ち以て文を学ぶ』と謂うは、其の説、相い合わざるに似たり」と。先生曰く、「『詩』『書』・六芸は、皆な是れ天理の発見なり。文字は都て其の中に包まる。之を『詩』『書』・六芸に考うるは、皆な此の天理を存するを学ぶ所以なり。特に事為に発見する者のみ方に文と為すにあらず。『余力あらば文を学ぶ』も亦た只だ『博く文を学ぶ』中の事なり」と。或るひと「学びて思わず」の二句を問う。曰く、「此れも亦た為にする有りて言う。其の実、思うは即ち学なり。学びて疑う所有らば、便ち須らく之を思うべし。『思いて学ばず』とは、蓋し此等の人有り。只だ懸空に去きて思い、一の想個の道理を想い出ださんことを要す。却って身心の上に在りて実に其の力を用い、以て此の天理を存するを学ばず。思と学とを両事と作して做す。故に『罔(くら)し』と『殆(あや)うし』の病有り。其の実、思うは只だ是れ其の学ぶ所を思う。原と両事に非ざるなり」と。先生曰く、「先儒、『格物』を解して天下の物を格すと為す。天下の物、如何ぞ格し得んや。且つ一草一木も亦た皆な理有りと謂う。今、如何ぞ去きて格さんや。縦い草・木を格し得来たるも、如何ぞ反り来たりて自家の意を誠にし得んや。我、『格』を解して『正』の字の義と作し、『物』を『事』の字の義と作す。『大学』の所謂る『身』は、即ち耳・目・口・鼻・四肢、是なり。身を修めんと欲するは便ち是れ、目は礼に非ずんば視る勿かれ、耳は礼に非ずんば聴く勿かれ、口は礼に非ずんば言う勿かれ、四肢は礼に非ずんば動く勿かれ、と要するなり。這個の身を修めんことを要するに、身上に如何ぞ工夫を用い得んや。心なる者は、身の主宰なり。目は視ると雖も、而して視る所以の者は、心なり。耳は聴くと雖も、而して聴く所以の者は、心なり。口と四肢とは言い動くと雖も、而して言い動く所以の者は、心なり。故に身を修めんと欲するは自家の心体を体当し、常に廓然大公にして、些子も正しからざる処有る無からしむるに在り。主宰、一たび正しければ、則ち目に竅を発するも、自ら礼に非ざるの視る無く、耳に竅を発するも、自ら礼に非ざるの聴く無く、口と四肢とに竅を発するも、自ら礼に非ざるの言い動く無し。此れ便ち是れ身を修むるは其の心を正すに在るなり。然れども至善なる者は、心の本体なり。心の本体、那ぞ不善有らんや。如今、心を正さんと要するに、本体の上、何処にか功を用い得んや。必ず心の発動する処に就きて、纔(はじ)めて力を著くべきなり。心の発動は不善無き能わず。故に須らく此の処に就きて力を著くべし。便ち是れ『誠意』に在るなり。一念、善を好むに発せば、便ち実実落落として去きて善を好むが如し。一念、悪を悪むに発せば、便ち実実落落として去きて悪を悪む。意の発する所、既に誠ならざる無くんば、則ち其の本体、如何ぞ正しからざる的有らんや。故に其の心を正さんと欲するは意を誠にするに在り。工夫、誠意に到りて、始めて著落の処有り。然れども誠意の本は、又た知を致すに在るなり。所謂る『人、知らずと雖も、己の独り知る者』、此れ正に是れ吾が心の良知の処なり。然れども善を知り得て、却って這個の良知に依りて便ち做し去らず、不善を知り得て、却って這個の良知に依りて便ち去きて做さずんば、則ち這個の良知は便ち遮蔽し了る。是れ知を致す能わざるなり。吾が心の良知、既に擴充して底に到る能わずんば、則ち善は好むを知ると雖も、著実に好む能わず。悪は悪むを知ると雖も、著実に悪む能わず。如何ぞ意の誠なるを得んや。故に知を致すは、意の誠なるの本なり。然れども亦た是れ懸空の致知にあらず。知を致すは実事の上に在りて格す。意、善を為すに在らば、便ち這件の事の上に就きて去きて為し、意、悪を去るに在らば、便ち這件の事の上に就きて去きて為さざるが如し。悪を去るは固より是れ不正を格して以て正に帰す。善を為すは則ち不善、正されたり。亦た是れ不正を格して以て正に帰すなり。此くの如くんば、則ち吾が心の良知、私欲の蔽う無くして、以て其の極を致すを得たり。而して意の発する所、善を好み悪を去ること、誠ならざる有る無し。誠意の工夫の実に手を下す処は格物に在るなり。若し此くの如く物を格さば、人人、便ち做し得たり。人皆な以て堯・舜と為るべしとは、正に此に在るなり」と。
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伝習録・答聶文蔚 二聖賢の学を論ずるは、多くは是れ時に随い事に就く。言は人ごとに殊なるが若しと雖も、而も其の工夫の頭脳を要するに、符節を合するが若し。天地の間に縁りて、原と只だ此の性有り、只だ此の理有り、只だ此の良知有り、只だ此の一件の事有るのみ。故に凡そ古人の学を論ずる処に就きて工夫を説かば、更に攙和兼搭して説くを必とせず。自然に脗合貫通せざる無き者なり。才かに攙和兼搭して説くを須いば、即ち是れ自己の工夫の未だ明徹ならざるなり。近時、「義を集む」の功は、必ず須らく個の「良知を致す」を兼搭して而る後に備わると謂う者有り。則ち是れ「義を集む」の功、尚お未だ了徹せざるなり。「義を集む」の功、尚お未だ了徹せずんば、適に以て「良知を致す」の累と為るに足るのみ。「良知を致す」の功は必ず須らく一個の「忘るる勿かれ、助くる勿かれ」を兼搭して而る後に明らかなりと謂わば、則ち是れ「良知を致す」の功、尚お未だ了徹せざるなり。「良知を致す」の功、尚お未だ了徹せずんば、適に以て「忘るる勿かれ、助くる勿かれ」の累と為るに足るのみ。此くの若き者は、皆な是れ文義の上に就きて解釈牽附し、以て混融湊泊を求めて、曾て自己の実工夫の上に就きて体験せず。是を以て之を論ずること愈々精にして、之を去ること愈々遠し。文蔚の論は、其の大本達道に於て既に已に沛然として疑い無し。「致知」「窮理」及び「忘・助」等の説に至りては、時に亦た攙和兼搭の処有り。却って是れ区区の所謂る康荘の大道の中に、或いは時に横斜迂曲なる者なり。工夫の熟するを得るの後に到らば、自ら将に釈然たらんとす。文蔚の「致知」の説を、之を親に事え兄に従うの間に求めて、便ち持循する所有るを覚ゆと謂うは、此の段、最も近来の真切篤実の功を見る。但だ此を以て自ら為すは妨げ無く、自ら力を得る処有り。此を以て遂に定説と為して人に教うれば、却って又た薬に因りて病を発するの患い有るを免れず。亦た一たび講ぜざるべからざるなり。
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伝習録・答欧陽崇一来書に又た云う、「師云う、『学を為すは終身、只だ是れ一事なり。事有ると事無きとを論ぜず、只だ是れ這の一件なり。若し寧ろ事を了せずとも、培養を加えざるべからずと説かば、却って是れ分ちて両事と為すなり』と。竊かに意う、精力の衰弱にして、以て事を終うるに足らざるを覚ゆる者は、良知なり。寧ろ事を了せずとも、且く休養を加うるは、致知なり。如何ぞ却って両事と為さんや。若し事変の来たり、事勢の了せざるを容れざる有りて、精力は衰うと雖も、稍(やや)鼓舞せば亦た能く支持せば、則ち志を持して以て気を帥(ひき)いて可なり。然れども言動、終に気力無く、事を畢(お)うれば則ち困憊已甚。其の気を暴(そこな)うに幾(ちか)からずや。此れ其の軽重緩急、良知は固より未だ嘗て知らずんばあらず。然れども或いは事勢に迫られば、安くんぞ能く精力を顧みん。或いは精力に困しめば、安くんぞ能く事勢を顧みん。如何にせば則ち可ならん」と。「寧ろ事を了せずとも、培養を加えざるべからず」の意は、且く初学と此くの如く説かば、亦た益無しと為さず。但だ両事と作して看了らば、便ち病痛の在る有り。孟子の「必ず事とすること有り」と言うは、則ち君子の学は終身、只だ是れ「義を集む」の一事なり。義とは、宜なり。心、其の宜を得るを之れ義と謂う。能く良知を致さば則ち心、其の宜を得たり。故に「義を集む」も亦た只だ是れ良知を致すなり。君子の万変に酬酢するや、行うべければ則ち行い、止むべければ則ち止み、生くべければ則ち生き、死すべければ則ち死す。斟酌調停、其の良知を致し、以て自ら慊(あきた)るを求むるに非ざる無きのみ。故に「君子は其の位に素して行う」「思うこと其の位を出でず」。凡そ其の力の及ばざる所を謀りて、其の知の能わざる所を強うる者は、皆な致良知と為すを得ず。而して凡そ「其の筋骨を労し、其の体膚を餓えしめ、其の身を空乏にし、行い其の為す所を払乱し、心を動かし性を忍びて以て其の能わざる所を増益す」る者は、皆な其の良知を致す所以なり。若し寧ろ事を了せずとも、培養を加えざるべからずと云う者は、亦た是れ先ず功利の心有り、成敗利鈍を計較して其の間に愛憎取捨するなり。是を以て事を了するを将(も)って自ら一事と作し、而して培養は又た別に一事と作す。此れ便ち是れ内を是とし外を非とするの意有り。便ち是れ自ら私して智を用う。便ち是れ「義を外にす」。便ち「心に得ずんば気に求むる勿かれ」の病有り。便ち是れ良知を致して以て自ら慊るを求むるの功にあらざるなり。云う所の「鼓舞支持し、事を畢うれば則ち困憊已甚」、又た云う「事勢に迫られ、精力に困しむ」は、皆な是れ両事と作し做し了れり。所以に此れ有り。凡そ学問の功、一なれば則ち誠、二なれば則ち偽。凡そ此れ皆な是れ良知を致すの意、誠一真切なるを欠くの故なり。『大学』に言う、「其の意を誠にする者は、悪臭を悪むが如く、好色を好むが如し。此れを之れ自ら慊ると謂う」と。曾て悪臭を悪み、好色を好みて、須らく鼓舞支持すべき者有るを見んや。
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伝習録・黄省曾録一友、「功夫、切ならず」を問う。先生曰く、「学問の功夫、我、已に曾て一句にて道い尽くせり。如何ぞ今日、転(うた)た説きて転た遠く、都て根に著かざるや」と。対えて曰く、「良知を致すは蓋し教えを聞けり。然れども亦た須らく講明すべし」と。先生曰く、「既に良知を致すを知らば、又た何ぞ講明すべけんや。良知は本と是れ明白なり。実落に功を用うれば便ち是なり。肯えて功を用いずして、只だ語言の上に在りて転た説きて転た糊塗す」と。曰く、「正に之を致すの功を講明せんことを求む」と。先生曰く、「此れも亦た須らく你、自家、求むべし。我も亦た別法の道うべき無し。昔、禅師有り。人、来たりて法を問えば、只だ塵尾を把りて提起す。一日、其の徒、其の塵尾を将って蔵し過ぎ、他が如何に法を設くるかを試む。禅師、塵尾を尋ねて見えず、又た只だ空手にて提起す。我の這個の良知は就ち是れ法を設くるの塵尾なり。這個を捨てなば、何の提げ得べき有らんや」と。少間、又た一友、功夫の切要を請い問う。先生、旁らを顧みて曰く、「我が塵尾、安くにか在る」と。一時、座に在る者、皆な躍然たり。
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