伝習録 / 黄省曾録
問『道心』、『人心』。先生曰:「『率性之為道』,便是道心;但著些人的意思在,便是人心。道心本是無聲無臭,故曰『微』;依著人心行去,便有許多不安穩處,故曰『危』。」
新字:問『道心』、『人心』。先生曰:「『率性之為道』,便是道心;但著些人的意思在,便是人心。道心本是無声無臭,故曰『微』;依著人心行去,便有許多不安穏処,故曰『危』。」
書き下し
『道心』『人心』を問う。先生曰く、「『性に率うを之れ道と為す』は、便ち是れ道心なり。但だ些(すこ)しの人の意思を著け在らば、便ち是れ人心なり。道心は本と是れ声無く臭無し。故に『微』と曰う。人心に依著して行き去らば、便ち許多の安穏ならざる処有り。故に『危』と曰う」と。
現代語訳
『道心』『人心』について問うた。先生は「『性に従うのを道とする』が道心だ。ただ少しでも人の思惑を着ければ、人心だ。道心はもともと声もなく匂いもない。だから『微か』という。人心に従って行けば、多くの落ち着かない所がある。だから『危うい』という」と言われた。
解説
「道心」と「人心」は、まったく異なる心ではなく、紙一重の差にあると説かれています。自分の本質的な良心に従うのが「道心」ですが、そこに少しでも個人的な思惑や欲望が混じると、それは「人心」に変わってしまうのです。道心は「微か」で気づきにくく、人心に従えば「危うい」のは、その境目が曖昧だからこそ。日々の選択において、自分の行動の根底にある動機を深く見つめることの重要性を教えてくれます。
この章句が説くこと
但著些人的意思在便是人心良心慎独
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