伝習録 / 陳九川録
「先生嘗言:『佛氏不著相,其實著了相;吾儒著相,其實不著相。』請問。」曰:「佛怕父子累,卻逃了父子;怕君臣累,卻逃了君臣;怕夫婦累,卻逃了夫婦,都是為個君臣、父子、夫婦著了相,便須逃避。如吾儒有個父子,還他以仁;有個君臣,還他以義;有個夫婦,還他以別,何曾著父子、君臣、夫婦的相?」
新字:「先生嘗言:『仏氏不著相,其実著了相;吾儒著相,其実不著相。』請問。」曰:「仏怕父子累,却逃了父子;怕君臣累,却逃了君臣;怕夫婦累,却逃了夫婦,都是為個君臣、父子、夫婦著了相,便須逃避。如吾儒有個父子,還他以仁;有個君臣,還他以義;有個夫婦,還他以別,何曽著父子、君臣、夫婦的相?」
書き下し
「先生、嘗て言う、『仏氏は相に著かずと。其の実は相に著き了れり。吾が儒は相に著くと。其の実は相に著かず』と。請い問う」と。曰く、「仏は父子の累を怕(おそ)れて、却って父子を逃る。君臣の累を怕れて、却って君臣を逃る。夫婦の累を怕れて、却って夫婦を逃る。都て是れ個の君臣・父子・夫婦の為に相に著き了る。便ち須らく逃避すべし。吾が儒の如きは、個の父子有らば、他に還すに仁を以てす。個の君臣有らば、他に還すに義を以てす。個の夫婦有らば、他に還すに別を以てす。何ぞ嘗て父子・君臣・夫婦の相に著かんや」と。
現代語訳
「先生はかつて『仏教は相にとらわれないと言うが、実は相にとらわれている。我々儒は相にとらわれると言うが、実はとらわれていない』と言われました。お尋ねします」。先生は言われた。「仏教は父子の煩わしさを恐れて、父子から逃げる。君臣の煩わしさを恐れて、君臣から逃げる。夫婦の煩わしさを恐れて、夫婦から逃げる。すべて君臣・父子・夫婦という相にとらわれているから、逃げるのだ。我々儒は、父子があれば仁を返し、君臣があれば義を返し、夫婦があれば別を返す。いつ父子・君臣・夫婦の相にとらわれたことがあろう」。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
伝習録・陳九川録先生曰く、「大凡そ朋友は、須らく箴規指摘の処、少なく、誘掖奨勧の意、多くして、方に是なるべし」と。後、又た九川を戒めて云う、「朋友と学を論ずるは、須らく委曲謙下、『寛にして以て之に居る』べし」と。
-
伝習録・陳九川録問う、「儒者、三更の時分に到り、胸中の思慮を掃蕩し、空空静静たるは、釈氏の静と只だ一般なり。両下、皆な用いず。此の時、何の分別する所ぞ」と。先生曰く、「動・静は只だ是れ一個なり。那の三更の時分の空空静静なるは、只だ是れ天理を存す。即ち是れ如今、事に応じ物に接するの心なり。如今、事に応じ物に接するの心も、亦た是れ此の天理に循う。便ち是れ那の三更の時分の空空静静の心なり。故に動・静は只だ是れ一個なり。分別し得ず。動・静の合一するを知り得ば、釈氏の毫釐の差う処も亦た自ら揜(おお)う莫からん」と。
-
『講孟余話』滕文公上 第五章二には父子と君臣と、善く見ざれば二本になるなり。三には養父と実父と。「人の後たる者は之れが子たり。故に後たる所の為めに斬衰三年を服し、而して其の父母を降して期とす。本祖を尊びて正統を重んずるを明らかにするなり」。是れ実父養父の義なり。善く見ざれば二本になるなり。四には君恩と教道と、善く見ざれば二本になるなり。迂儒の漢土に負最し、奸僧の釈迦に荷担する、皆是れなり。然れども近世文明の化行はれ、聖賢の道に志す者、絶えて此の弊なし。近頃浮屠虞淵なる者の護法小品を読むに、其の論甚だ善し。仏者の見、果して皆渠が如くなれば、二本の患なしと云ふべし。凡そ一本の誤りて二本となること、此の四つの外千百限りなし。今特に其の大なる者を挙ぐるのみ。
-
『講孟余話』離婁上 第十一章「人人其の親を親とし、其の長を長とすれば、天下平らかなり」。此の語天下の至論なり。君君たり、臣臣たり、父父たり、子子たり、兄兄たり、弟弟たり、夫夫たり、婦婦たらば、天下豈に平らかならざることあらんや。然れども天下の平らかならざるは、君君たらずして臣臣たらず、臣臣たらずして君君たらざるにあり。二つの者常に相待ちて後、天下平らかならず。父子兄弟夫婦皆一理なり。若し君君たらずと云へども臣臣たらば、天下尚平らかなり。臣臣たらずと云へども君君たらば、天下尚平らかなり。此の処工夫の入る所なり。君は君の道を尽くして臣を感格すべし。臣は臣の道を尽くして君を感格すべし。父子兄弟夫婦も一理なり。此の義中々小賢しき者の知る所に非ず。
-
伝習録・陳九川録「忿懥する所有り」の一条を問う。先生曰く、「忿懥の幾件、人の心、怎(いか)んぞ能く無きを得んや。只だ是れ『有る』べからざるのみ。凡そ人の忿懥するは、一分の意思を著け了らば便ち怒ること過当し、廓然大公の体に非ず。故に忿懥する所有らば、便ち其の正しきを得ざるなり。如今、凡そ忿懥等の件に於て、只だ是れ個の物来たりて順応するのみ。一分の意思を著けざらんことを要さば、便ち心体は廓然大公にして、其の本体の正しきを得たり。且つ外に出でて人の相い鬬うを見るが如し。其の是ならざる的は、我が心も亦た怒る。然れども怒ると雖も、却って此の心は廓然として、曾て些子の気も動かず。如今、人を怒るも、亦た此くの如きを得ば、方に纔(はじ)めて是れ正なり」と。
-
伝習録・黄省曾録郷人に父子の獄を訟うる者有り。訴えを先生に請う。侍者、之を阻まんと欲す。先生、之を聴く。言、辞を終えざるに、其の父子、相い抱きて慟哭して去る。柴鳴治、人問いて曰く、「先生、何をか言いて、伊(かれ)が感悔の速やかなるを致すか」と。先生曰く、「我、舜は是れ世間の大不孝の子、瞽瞍は是れ世間の大慈の父なりと言えり」と。鳴治、愕然たり。問わんことを請う。先生曰く、「舜は常に自ら以て大不孝と為す。所以に能く孝なり。瞽瞍は常に自ら以て大慈と為す。所以に慈なる能わず。瞽瞍は只だ舜は是れ我が提孩して長ぜしめたるを記得す。今、何ぞ曾て我を予悦せざるかと。自らの心の已に後妻の為に移されたるを知らず。尚お自家、能く慈なりと謂う。所以に愈々慈なる能わず。舜は只だ父の我を提孩せし時、如何に我を愛せしかを思う。今日、愛せざるは、只だ是れ我、孝を尽くす能わざるなりと。日々に孝を尽くす能わざる処を思う。所以に愈々能く孝なり。瞽瞍、豫(よろこ)びを底(いた)す時に至るに及びては、又た此の心の原と慈なるの本体を復し得るに過ぎず。所以に後世、舜を称して是れ古今の大孝の子と為し、瞽瞍も亦た個の慈父と做し成れり」と。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る