伝習録 / 陳九川録
問「有所忿懥」一條。先生曰:「忿懥幾件,人心怎能無得,只是不可『有』耳。凡人忿懥,著了一分意思便怒得過當,非廓然大公之體了。故有所忿懥,便不得其正也。如今於凡忿懥等件,只是個物來順應,不要著一分意思,便心體廓然大公,得其本體之正了。且如出外見人相鬬,其不是的,我心亦怒;然雖怒,卻此心廓然,不曾動些子氣。如今怒人,亦得如此,方纔是正。」
新字:問「有所忿懥」一条。先生曰:「忿懥幾件,人心怎能無得,只是不可『有』耳。凡人忿懥,著了一分意思便怒得過当,非廓然大公之体了。故有所忿懥,便不得其正也。如今於凡忿懥等件,只是個物来順応,不要著一分意思,便心体廓然大公,得其本体之正了。且如出外見人相闘,其不是的,我心亦怒;然雖怒,却此心廓然,不曽動些子気。如今怒人,亦得如此,方纔是正。」
書き下し
「忿懥する所有り」の一条を問う。先生曰く、「忿懥の幾件、人の心、怎(いか)んぞ能く無きを得んや。只だ是れ『有る』べからざるのみ。凡そ人の忿懥するは、一分の意思を著け了らば便ち怒ること過当し、廓然大公の体に非ず。故に忿懥する所有らば、便ち其の正しきを得ざるなり。如今、凡そ忿懥等の件に於て、只だ是れ個の物来たりて順応するのみ。一分の意思を著けざらんことを要さば、便ち心体は廓然大公にして、其の本体の正しきを得たり。且つ外に出でて人の相い鬬うを見るが如し。其の是ならざる的は、我が心も亦た怒る。然れども怒ると雖も、却って此の心は廓然として、曾て些子の気も動かず。如今、人を怒るも、亦た此くの如きを得ば、方に纔(はじ)めて是れ正なり」と。
現代語訳
「忿りがある」の一条を問うた。先生は言われた。「忿りなどの感情を、人の心がどうしてなくせよう。ただ『とどめて有る』べきでないのだ。人が怒る時、少しでも私の思いを加えれば、度を過ぎて怒り、廓然大公の体でなくなる。だから忿りがとどまれば、正しさを得ない。忿りなどに対して、ただ物が来れば順応するだけだ。少しの思いも加えなければ、心の本体は廓然大公で、本来の正しさを得る。外に出て人が争っているのを見て、悪いほうには私の心も怒る。しかし怒っても、心は広々として、少しの気も動いていない。人を怒るのも、こうできて初めて正しい」。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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伝習録・陳九川録九川問う、「近年、泛濫の学を厭うに因り、毎に静坐して、念慮を屏息せんことを求めんと要す。惟だ能わざるのみならず、愈々擾擾たるを覚ゆ。如何」と。先生曰く、「念、如何ぞ息(や)むべけんや。只だ是れ正しからんことを要す」と。曰く、「当に自ら念無き時有るべきか否か」と。先生曰く、「実に念無き時無し」と。曰く、「此くの如くんば却って如何ぞ静を言わん」と。曰く、「静は未だ嘗て動かざるにあらず。動は未だ嘗て静ならざるにあらず。戒謹恐懼は即ち是れ念なり。何ぞ動静を分かたん」と。曰く、「周子は何を以て『之を定むるに中正仁義を以てして静を主とす』と言うか」と。曰く、「欲無し、故に静なり。是れ『静も亦た定、動も亦た定』の定の字なり。其の本体を主とするなり。戒懼の念は、是れ活潑潑地なり。此れ是れ天機の息まざる処なり。所謂る『維(こ)れ天の命、於(ああ)穆として已まず』なり。一たび息まば便ち是れ死なり。本体の念に非ずんば、則ち是れ私念なり」と。
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伝習録・陸澄録「喜・怒・哀・楽の本体は、自ら是れ中和なり。才かに自家、些かの意思を著くれば、便ち過不及あり、便ち是れ私なり」。
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伝習録・陳九川録九川問う、「自ら念慮を省するに、或いは邪妄に渉り、或いは預め天下の事を料理す。思うこと極処に到れば、井井として味有り。便ち繾綣として屏け難し。覚ること早ければ則ち易く、覚ること遅ければ則ち難きを覚ゆ。力を用いて克治すれば、愈々扞格を覚ゆ。惟だ稍(やや)念を他事に遷せば、則ち随いて両つながら忘る。此くの如く廓清せば、亦た害無きに似たり」と。先生曰く、「何ぞ須らく此くの如くなるべけんや。只だ良知の上に功夫を著くるを要す」と。九川曰く、「正に那の一時の知らざるを謂う」と。先生曰く、「我、這裏に自ら功夫有り。何に縁りてか他を得来たらん。只だ爾の功夫、断え了るが為に、便ち其の知を蔽う。既に断え了らば、則ち旧功を継続すれば便ち是れなり。何ぞ必ずしも此くの如くならんや」と。九川曰く、「直だ是れ鏖(たたか)い難し。知ると雖も他を丟(す)て去らず」と。先生曰く、「須らく是れ勇なるべし。功を用うること久しくば、自ら勇有り。故に曰く『是れ義を集めて生ずる者なり』と。勝ち得ること容易ならば、便ち是れ大賢なり」と。
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伝習録・黄省曾録問う、「知は日に譬え、欲は雲に譬う。雲は能く日を蔽うと雖も、亦た是れ天の一気の合に有るべき的なり。欲も亦た人心に非ざる莫し。合に有るべきや否や」と。先生曰く、「喜・怒・哀・懼・愛・悪・欲、之を七情と謂う。七者は倶に是れ人心の合に有るべき的なり。但だ良知を認め得て明白なるを要す。比如(たと)えば日光は、亦た方所を指著すべからず。一隙も通明ならば、皆な是れ日光の在る所なり。雲霧、四塞すと雖も、太虚中の色象、辨ずべきは、亦た是れ日光の滅せざる処なり。雲の能く日を蔽うを以て、天をして雲を生ずるを要せざらしむべからず。七情は其の自然の流行に順わば、皆な是れ良知の用なり。善悪を分別すべからず。但だ著する所有るべからず。七情に著する有らば、倶に之を欲と謂う。倶に良知の蔽と為る。然れども纔(わず)かに著する有る時、良知も亦た自ら覚るを会(よ)くす。覚らば即ち蔽は去り、其の体に復す。此の処、能く勘得して破らば、方に是れ簡易透徹の功夫なり」と。
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伝習録・陳九川録問う、「儒者、三更の時分に到り、胸中の思慮を掃蕩し、空空静静たるは、釈氏の静と只だ一般なり。両下、皆な用いず。此の時、何の分別する所ぞ」と。先生曰く、「動・静は只だ是れ一個なり。那の三更の時分の空空静静なるは、只だ是れ天理を存す。即ち是れ如今、事に応じ物に接するの心なり。如今、事に応じ物に接するの心も、亦た是れ此の天理に循う。便ち是れ那の三更の時分の空空静静の心なり。故に動・静は只だ是れ一個なり。分別し得ず。動・静の合一するを知り得ば、釈氏の毫釐の差う処も亦た自ら揜(おお)う莫からん」と。
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伝習録・陳九川録又た問う、「静坐して功を用うるに、頗る此の心の収斂するを覚ゆ。事に遇わば又た断え了る。旋(すなわ)ち個の念頭を起こし、事上に去きて省察す。事、過ぎて又た旧功を尋ぬ。還お内外有りて、打ちて一片と作さざるを覚ゆ」と。先生曰く、「此れ『格物』の説、未だ透らざるなり。心、何ぞ嘗て内外有らんや。即ち惟濬の今、此に在りて講論するが如きも、又た豈に一心の内に在りて照管する有らんや。這(こ)の講説を聴く時の専敬は、即ち是れ那(か)の静坐する時の心なり。功夫は一貫す。何ぞ須らく更に念頭を起こすべけんや。人は須らく事上に在りて磨錬し、功夫を做して乃ち益有るべし。若し只だ静を好み、事に遇わば便ち乱れば、終に長進無し。那の静なる時の功夫も亦た差う。収斂に似て、実は放溺なり」と。後、洪都に在りて、復た于中・国裳と内外の説を論ず。渠(かれ)ら皆な云う、物は自ら内外有り。但だ内外並びに功夫を著くるを要す。間有るべからざるのみ、と。以て先生に質す。曰く、「功夫は本体を離れず。本体は原と内外無し。只だ後来、功夫を做す者の内外を分かちて、其の本体を失うが為なり。如今、正に功夫の内外有るを要せざるを講明せんとす。乃ち是れ本体の功夫なり」と。是の日、倶に省有り。
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