伝習録 / 陳九川録
「聖人無所不知,只是知個天理;無所不能,只是能個天理。聖人本體明白,故事事知個天理所在,便去盡個天理;不是本體明後,卻於天下事物都便知得,便做得來也。天下事物,如名物度數、草木鳥獸之類,不勝其煩,聖人須是本體明了,亦何緣能盡知得?但不必知的,聖人自不消求知,其所當知的,聖人自能問人;如『子入太廟,每事問』之類。先儒謂『雖知亦問,敬謹之至』;此說不可通。聖人於禮樂名物,不必盡知。然他知得一個天理,便自有許多節文度數出來。不知能問,亦即是天理節文所在。」
新字:「聖人無所不知,只是知個天理;無所不能,只是能個天理。聖人本体明白,故事事知個天理所在,便去尽個天理;不是本体明後,却於天下事物都便知得,便做得来也。天下事物,如名物度数、草木鳥獣之類,不勝其煩,聖人須是本体明了,亦何縁能尽知得?但不必知的,聖人自不消求知,其所当知的,聖人自能問人;如『子入太廟,毎事問』之類。先儒謂『雖知亦問,敬謹之至』;此説不可通。聖人於礼楽名物,不必尽知。然他知得一個天理,便自有許多節文度数出来。不知能問,亦即是天理節文所在。」
書き下し
「聖人は知らざる所無しとは、只だ是れ個の天理を知るなり。能わざる所無しとは、只だ是れ個の天理を能くするなり。聖人は本体、明白なり。故に事事、個の天理の在る所を知りて、便ち去きて個の天理を尽くす。是れ本体、明らかなる後に、却って天下の事物に於て都て便ち知り得、便ち做し得来たるに非ざるなり。天下の事物、名物度数、草木鳥獣の類の如きは、其の煩に勝えず。聖人も須らく是れ本体、明らかならんとするも、亦た何に縁りてか能く尽く知り得んや。但だ必ずしも知らざる的は、聖人、自ら知るを求むるを消(もち)いず。其の当に知るべき所の的は、聖人、自ら能く人に問う。『子、太廟に入り、事毎に問う』の類の如し。先儒は『知ると雖も亦た問うは、敬謹の至りなり』と謂う。此の説は通ずべからず。聖人は礼楽名物に於て、必ずしも尽くは知らず。然れども他、一個の天理を知り得れば、便ち自ら許多の節文度数有りて出で来たる。知らずして能く問うも、亦た即ち是れ天理節文の在る所なり」と。
現代語訳
「聖人が知らないことがないというのは、天理を知っているということだ。できないことがないというのは、天理をよくするということだ。聖人は本体が明白だ。だから事ごとに天理のある所を知り、天理を尽くす。本体が明らかになった後で、天下の事物をみな知り、できるようになるのではない。名物や度数、草木鳥獣の類は、煩雑さに堪えない。聖人も本体を明らかにするだけで、どうしてすべて知れよう。知る必要のないものは、聖人は知ろうとしない。知るべきものは、人に問う。『孔子は太廟に入って、事ごとに問うた』の類だ。先の儒者は『知っていても問うのは、敬慎の極みだ』と言う。この説は通らない。聖人は礼楽や名物を、すべて知っているわけではない。しかし天理を知っていれば、自ずと多くの作法が出てくる。知らないから問うのも、天理の作法のある所だ」。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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伝習録・陳九川録先生曰く、「聖人も亦た是れ『学知』なり。衆人も亦た是れ『生知』なり」と。問いて曰く、「何如」と。曰く、「這の良知は人人皆な有す。聖人は只だ是れ保全して些(すこ)しの障蔽も無く、兢兢業業、亹亹翼翼として、自然に息まず。便ち也(また)是れ学なり。只だ是れ生の分数、多し。所以に之を『生知・安行』と謂う。衆人は孩提の童より、此の知を完具せざる莫し。只だ是れ障蔽、多し。然れども本体の知は自ら泯息し難し。問学克治すと雖も、也(また)只だ他に憑る。只だ是れ学の分数、多し。所以に之を『学知・利行』と謂う」と。
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伝習録・陳九川録先生曰く、「聖賢は功業気節無きに非ず。但だ其れ這の天理に循えば、則ち便ち是れ道なり。事功気節を以て名づくべからざるなり」と。
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伝習録・黄省曾録先生曰く、「『惟だ天下の聖のみ、能く聡明睿知たりと為す』。旧に看るに何等か玄妙なる。今、看来たるに、原と是れ人人自ら有する的なり。耳は原と是れ聡、目は原と是れ明、心思は原と是れ睿知なり。聖人は只だ是れ之を一に能くするのみ。能くする処は正に是れ良知なり。衆人の能わざるは、只だ是れ個の知を致さざるなり。何等か明白簡易なる」と。
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伝習録・答周道通書来書に云う、「凡そ学者、纔(わず)かに工夫を做すを暁り得れば、便ち聖人の気象を識り得んことを要す。蓋し聖人の気象を認め得て、把(と)りて準的と做し、乃ち実地に就きて工夫を做し去らば、才めて差う会(べ)からず、才めて是れ聖を作すの工夫ならん。未だ知らず、是なりや否や」と。先に聖人の気象を認むるは、昔人、嘗て是の言有り。然れども亦た頭脳有るを欠く。聖人の気象は自ら是れ聖人の的なり。我は何の処より識認せん。若し自己の良知の上に就きて真切に体認せずんば、星無きの称(はかり)を以て軽重を権(はか)り、未だ開かざるの鏡もて妍醜を照らすが如し。真に所謂る小人の腹を以て、君子の心を度るなり。聖人の気象は何に由りて認め得ん。自己の良知は原と聖人と一般なり。若し自己の良知を体認し得て明白ならば、則ち聖人の気象は聖人に在らずして我に在り。程子嘗て云う、「堯を覷(うかが)い著(つ)け、他の行事を学ぶも、他の許多の聡明睿智無くんば、安くんぞ能く彼の動容周旋の礼に中るが如くならんや」と。又た云う、「心、道に通じ、然る後に能く是非を辨ず」と。今、且く説け、道に通ずるは何処に在りや。聡明睿智は何処より出で来たるや。
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伝習録・黄省曾録或るひと「至誠は前(さき)に知る」を問う。先生曰く、「誠は是れ実理なり。只だ是れ一個の良知なり。実理の妙用流行は就ち是れ神なり。其の萌動する処は就ち是れ幾なり。誠・神・幾、聖人と曰う。聖人は前に知るを貴ばず。禍福の来たるは、聖人と雖も免れざる所有り。聖人は只だ是れ幾を知り、変に遇いて通ずるのみ。良知に前後無し。只だ見在の幾を知り得れば、便ち是れ一了百了なり。若し個の前に知るの心有らば、就ち是れ私心なり。就ち趨避利害の意有り。邵子の必ず前に知らんとするは、終に是れ利害の心の未だ尽きざる処なり」と。
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伝習録・陳九川録先生、嘗て謂う、「人、但だ善を好むこと好色を好むが如く、悪を悪むこと悪臭を悪むが如きを得ば、便ち是れ聖人なり」と。直、初め之を聞き、甚だ易しと覚ゆ。後に体験し得来たり、此の個の功夫、著実に是れ難し。一念、善を好み悪を悪むを知ると雖も、然れども知らず覚らず又た夾雑し去れり。才かに夾雑有らば、便ち是れ善を好むこと好色を好むが如く、悪を悪むこと悪臭を悪むが如きの心に非ず。善、能く実実に之を好まば、是れ念として善ならざる無し。悪、能く実実に之を悪まば、是れ念として悪に及ぶ無し。如何ぞ是れ聖人ならざらんや。故に聖人の学は、只だ是れ一の誠のみ。
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