伝習録 / 陳九川録
「『發憤忘食』是聖人之志如此,真無有已時。『樂以忘憂』是聖人之道如此,真無有戚時。恐不必云得不得也。」
新字:「『発憤忘食』是聖人之志如此,真無有已時。『楽以忘憂』是聖人之道如此,真無有戚時。恐不必云得不得也。」
書き下し
「『憤りを発して食を忘る』は是れ聖人の志、此くの如し。真に已む時有ること無し。『楽しみて以て憂いを忘る』は是れ聖人の道、此くの如し。真に戚(うれ)うる時有ること無し。恐らくは必ずしも得ると得ざるとを云わざるべし」と。
現代語訳
「『発憤して食を忘れる』とは、聖人の志がこうだということだ。本当にやむ時がない。『楽しんで憂いを忘れる』とは、聖人の道がこうだということだ。本当に憂える時がない。得たとか得ないとかを言う必要はないだろう」。
解説
何かに没頭し、時間を忘れて取り組む状態は、特別な達成や境地に至ったからこそ得られるものではありません。それは、心から打ち込める対象に出会った時、誰にでも起こりうる自然な心のあり方です。仕事や趣味、学びにおいて、夢中になれる瞬間は、結果や評価を気にせず、ただそのプロセスそのものを楽しんでいる状態。そうした「やむ時がない」持続的な熱意こそが、私たちを成長させ、充実した日々へと導く原動力となるでしょう。
この章句が説くこと
恐不必云得不得也
関連する章句
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言志四録・南洲手抄憤を発して食を忘る、志気是の如し。楽んで以て憂を忘る、心体是の如し。老の将に至らんとするを知らず、命を知り天を楽しむもの是の如し。聖人は人と同じからず、又人と異ならず。
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伝習録・陳九川録先生曰く、「聖賢は功業気節無きに非ず。但だ其れ這の天理に循えば、則ち便ち是れ道なり。事功気節を以て名づくべからざるなり」と。
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伝習録・陳九川録先生、嘗て謂う、「人、但だ善を好むこと好色を好むが如く、悪を悪むこと悪臭を悪むが如きを得ば、便ち是れ聖人なり」と。直、初め之を聞き、甚だ易しと覚ゆ。後に体験し得来たり、此の個の功夫、著実に是れ難し。一念、善を好み悪を悪むを知ると雖も、然れども知らず覚らず又た夾雑し去れり。才かに夾雑有らば、便ち是れ善を好むこと好色を好むが如く、悪を悪むこと悪臭を悪むが如きの心に非ず。善、能く実実に之を好まば、是れ念として善ならざる無し。悪、能く実実に之を悪まば、是れ念として悪に及ぶ無し。如何ぞ是れ聖人ならざらんや。故に聖人の学は、只だ是れ一の誠のみ。
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伝習録・陳九川録「聖人は知らざる所無しとは、只だ是れ個の天理を知るなり。能わざる所無しとは、只だ是れ個の天理を能くするなり。聖人は本体、明白なり。故に事事、個の天理の在る所を知りて、便ち去きて個の天理を尽くす。是れ本体、明らかなる後に、却って天下の事物に於て都て便ち知り得、便ち做し得来たるに非ざるなり。天下の事物、名物度数、草木鳥獣の類の如きは、其の煩に勝えず。聖人も須らく是れ本体、明らかならんとするも、亦た何に縁りてか能く尽く知り得んや。但だ必ずしも知らざる的は、聖人、自ら知るを求むるを消(もち)いず。其の当に知るべき所の的は、聖人、自ら能く人に問う。『子、太廟に入り、事毎に問う』の類の如し。先儒は『知ると雖も亦た問うは、敬謹の至りなり』と謂う。此の説は通ずべからず。聖人は礼楽名物に於て、必ずしも尽くは知らず。然れども他、一個の天理を知り得れば、便ち自ら許多の節文度数有りて出で来たる。知らずして能く問うも、亦た即ち是れ天理節文の在る所なり」と。
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伝習録・陳九川録虔州、将に帰らんとし、詩有りて先生に別れて云う、「良知、何事ぞ多聞に繋がらん。妙合、当時、已に根を種う。好悪、之に従うは聖学と為す。将迎、処無きは是れ乾元」と。先生曰く、「若し未だ来たりて此の学を講ぜずんば、『好悪、之に従う』と説くも、個の甚麼に従うかを知らざらん」と。敷英、座に在りて曰く、「誠に然り。嘗て先生の『大学古本序』を読むも、説く所、何事なるかを知らず。来たりて聴講すること許時に及びて、乃ち稍(やや)大意を知る」と。
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伝習録・黄以方録問う、「先儒は『鳶飛び』『魚躍る』は、『必ず事とすること有り』と同じく一に活潑潑地なりと謂う」と。先生曰く、「亦た是なり。天地の間の活潑潑地は、此の理に非ざる無し。便ち是れ吾が良知の流行して息まざるなり。『良知を致す』は便ち是れ『必ず事とすること有り』の功夫なり。此の理は惟だ離るべからざるのみに非ず、実に亦た得て離れざるなり。往くとして道に非ざる無く、往くとして工夫に非ざる無し」と。
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