伝習録 / 陳九川録
先生曰:「聖賢非無功業氣節,但其循著這天理,則便是道,不可以事功氣節名矣。」
新字:先生曰:「聖賢非無功業気節,但其循著這天理,則便是道,不可以事功気節名矣。」
書き下し
先生曰く、「聖賢は功業気節無きに非ず。但だ其れ這の天理に循えば、則ち便ち是れ道なり。事功気節を以て名づくべからざるなり」と。
現代語訳
先生は言われた。「聖賢に功業や気節がないのではない。ただ天理に従えば、それが道だ。功績や気概の名で呼ぶことはできない」。
解説
私たちは、何かを成し遂げた時、その功績や結果にばかり目を向けがちです。しかし、本当に大切なのは、その行動の根底にある「天理」、つまり人として当然の道理や誠実さといったものです。目に見える成果は、その道理に従って行動した結果として自然に現れるものであり、それを目的として追い求めると、本質を見失うことがあります。大切なのは、日々の行動が道理にかなっているか、その一点に意識を向けること。そうすれば、結果は後からついてくるでしょう。
この章句が説くこと
但其循著這天理則便是道不可以事功気節名矣
関連する章句
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伝習録・陳九川録「聖人は知らざる所無しとは、只だ是れ個の天理を知るなり。能わざる所無しとは、只だ是れ個の天理を能くするなり。聖人は本体、明白なり。故に事事、個の天理の在る所を知りて、便ち去きて個の天理を尽くす。是れ本体、明らかなる後に、却って天下の事物に於て都て便ち知り得、便ち做し得来たるに非ざるなり。天下の事物、名物度数、草木鳥獣の類の如きは、其の煩に勝えず。聖人も須らく是れ本体、明らかならんとするも、亦た何に縁りてか能く尽く知り得んや。但だ必ずしも知らざる的は、聖人、自ら知るを求むるを消(もち)いず。其の当に知るべき所の的は、聖人、自ら能く人に問う。『子、太廟に入り、事毎に問う』の類の如し。先儒は『知ると雖も亦た問うは、敬謹の至りなり』と謂う。此の説は通ずべからず。聖人は礼楽名物に於て、必ずしも尽くは知らず。然れども他、一個の天理を知り得れば、便ち自ら許多の節文度数有りて出で来たる。知らずして能く問うも、亦た即ち是れ天理節文の在る所なり」と。
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伝習録・黄省曾録問う、「『一日、己に克ちて礼に復れば、天下、仁に帰す』を、朱子は効験の説と作す。如何」と。先生曰く、「聖賢は只だ是れ己が為にするの学なり。功夫を重んじて効験を重んぜず。仁者は万物を以て体と為す。一体なる能わざるは、只だ是れ己が私、未だ忘れざるなり。全く仁体を得ば、則ち天下は皆な吾が仁に帰す。就ち是れ『八荒、皆な我が闥(たつ)に在り』の意なり。天下、皆な与するも、其の仁も亦た其の中に在り。『邦に在りて怨み無く、家に在りて怨み無し』の如きも、亦た只だ是れ自家、怨みざるなり。『天を怨みず、人を尤めず』の意の如し。然れども家邦の我を怨む無きも、亦た其の中に在り。但だ重んずる所は此に在らず」と。
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伝習録・陳九川録問う、「『修道説』に『性に率うを之れ道と謂う』と言うは、聖人の分上の事に属す。『道を修むるを之れ教と謂う』は、賢人の分上の事に属す」と。先生曰く、「衆人も亦た性に率うなり。但だ性に率うは聖人の分上に在りて較(や)や多し。故に『性に率うを之れ道と謂う』は聖人の事に属す。聖人も亦た道を修むるなり。但だ道を修むるは賢人の分上に在りて多し。故に『道を修むるを之れ教と謂う』は賢人の事に属す」と。又た曰く、「『中庸』一書は、大抵、皆な是れ道を修むるの事を説く。故に後面、凡そ君子を説き、顔淵を説き、子路を説くは、皆な是れ能く道を修むる者なり。小人を説き、賢知・愚不肖を説き、庶民を説くは、皆な是れ道を修むる能わざる者なり。其の他、舜・文・周公・仲尼の至誠至聖の類を言うは、則ち又た聖人の自ら能く道を修むる者なり」と。
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