伝習録 / 陳九川録
又曰:「知來本無知,覺來本無覺,然不知則遂淪埋。」
新字:又曰:「知来本無知,覚来本無覚,然不知則遂淪埋。」
書き下し
又た曰く、「知り来たるも本と知無く、覚り来たるも本と覚無し。然れども知らずんば則ち遂に淪埋せん」と。
現代語訳
また言われた。「知ったといっても、もともと知はなく、覚ったといっても、もともと覚はない。しかし知らなければ、そのまま埋もれてしまう」。
解説
私たちは「知る」「覚る」という行為を、何かを新たに獲得することだと考えがちです。しかし、この一節は、それらがもともと自分の中に備わっているものだと示唆します。まるで、ずっとそこにあった宝物に、ようやく気づくようなものです。大切なのは、その存在に気づき、意識を向けること。もし気づかなければ、その宝は埋もれたままになってしまうでしょう。日々の忙しさの中で、自分自身の内側にある大切なものに目を向ける時間を持つことの重要性を教えてくれます。
この章句が説くこと
知来本無知覚来本無覚然不知則遂淪埋
関連する章句
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伝習録・黄省曾録先生曰く、「知る無く知らざる無しとは、本体は原と是くの如し。譬えば日は未だ嘗て心に物を照らす有らずして、自ら物として照らさざる無し。照らす無く照らさざる無きは、原と是れ日の本体なり。良知は本と知る無し。今、却って知る有らんことを要す。本と知らざる無し。今、却って知らざる有るかと疑う。只だ是れ信ずること及ばざるのみ」と。
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伝習録・陳九川録先生、九川に問う、「『致知』の説に於て体験すること何如」と。九川曰く、「自ら同じからざるを覚ゆ。往時、操持するに常に個の恰好の処を得ず。此れ乃ち是れ恰好の処なり」と。先生曰く、「知るべし、是れ体し来たるは講を聴くと同じからざるを。我、初め与に講ずる時、爾は只だ是れ忽易にして、未だ滋味有らざるを知る。只だ這個の要妙、再び体して深き処に到らば、日に同じからざるを見ん。是れ窮尽無き的なり」と。又た曰く、「此の『致知』の二字は、真に是れ個の千古聖伝の秘なり。這裏に見到らば、『百世、以て聖人を俟ちて惑わず』」と。
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伝習録・陳九川録九川問う、「此の功夫は却って心上に於て体験すること明白なり。只だ書を解するに通ぜず」と。先生曰く、「只だ心を解せんことを要す。心、明白ならば、書は自然に融会せん。若し心上に通ぜずして、只だ書上の文義に通ぜんことを要さば、却って自ら意見を生ぜん」と。
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伝習録・陳九川録九川、問いて曰く、「伊川、体用一原、顕微間無しの処に説き到るや、門人、已に是れ天機を泄らすと説けり。先生の『致知』の説も、亦た天機を泄らすこと太だ甚だしからざるか」と。先生曰く、「聖人は已に指して以て人に示せり。只だ後人の揜匿するが為に、我、発明するのみ。何の故に泄らすと説かん。此れ是れ人人、自ら有する的なり。覚り来たれば甚だ打緊せざる一般なり。然れども実功を用いざる人と説かば、亦た甚だ軽忽にして惜しむべし。彼此、益無し。実に功を用いて其の要を得ざる者と与に之を提撕せば、甚だ沛然として力を得ん」と。
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伝習録・黄以方録一友、挙ぐ、「仏家、手指を以て顕し出だし、問いて曰く、『衆、曾て見るや否や』と。衆曰く、『之を見る』と。復た手指を以て袖に入れ、問いて曰く、『衆、還た見るや否や』と。衆曰く、『見ず』と。仏、説く、『還た未だ性を見ず』と。此の義、未だ明らかならず」と。先生曰く、「手指は見る有り、見ざる有り。爾の見性は常に在り。人の心神は只だ睹る有り聞く有るの上に在りて馳騖し、睹ず聞かざるの上に在りて著実に功を用いず。蓋し睹ず聞かざるは是れ良知の本体、戒慎・恐懼は是れ良知を致すの工夫なり。学者、時時刻刻、常に其の睹ざる所を睹、常に其の聞かざる所を聞かば、工夫、方に個の実落の処有らん。久久にして成熟する後、則ち力を著くるを須いず、防検を待たずして、真性、自ら息まざらん。豈に外に在る者の聞見を以て累と為さんや」と。
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伝習録・黄省曾録一友問う、「書を読みて記し得ず。如何」と。先生曰く、「只だ暁り得んことを要す。如何ぞ記し得んことを要さんや。暁り得んことを要するも已に是れ第二義に落つ。只だ自家の本体を明らかにし得んことを要す。若し徒らに記し得んことを要さば、便ち暁り得ず。若し徒らに暁り得んことを要さば、便ち自家の本体を明らかにし得ず」と。
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