伝習録 / 陳九川録
又問:「用功收心時,有聲色在前,如常聞見,恐不是專一。」曰:「如何欲不聞見?除是槁木死灰、耳聾目盲則可。只是雖聞見而不流去便是。」曰:「昔有人靜坐,其子隔壁讀書,不知其勤惰。程子稱其甚敬。何如?」曰:「伊川恐亦是譏他。」
新字:又問:「用功収心時,有声色在前,如常聞見,恐不是専一。」曰:「如何欲不聞見?除是槁木死灰、耳聾目盲則可。只是雖聞見而不流去便是。」曰:「昔有人静坐,其子隔壁読書,不知其勤惰。程子称其甚敬。何如?」曰:「伊川恐亦是譏他。」
書き下し
又た問う、「功を用いて心を収斂する時、声色の前に在る有らば、常の如く聞見す。恐らくは是れ専一ならざらん」と。曰く、「如何ぞ聞見せざらんと欲するや。是れ槁木死灰、耳聾目盲なるを除きては則ち可ならん。只だ是れ聞見すと雖も流れ去らざれば便ち是れなり」と。曰く、「昔、人有り静坐す。其の子、壁を隔てて書を読む。其の勤惰を知らず。程子、其の甚だ敬なるを称す。何如」と。曰く、「伊川、恐らくは亦た是れ他を譏るならん」と。
現代語訳
また問うた。「努力して心を収める時、目の前に音や色があれば、いつも通り聞こえ見えます。専一でないのでは」。先生は「どうして聞き見ないでいられよう。枯れ木や死んだ灰、耳が聞こえず目が見えないなら別だが。ただ聞き見ても、流されなければそれでよい」と言われた。「昔、静坐している人がいて、息子が壁の向こうで本を読んでいたが、熱心か怠けているか分からなかった。程子はその敬の深さを称えました。どうでしょう」。先生は「程伊川は、むしろ彼を譏ったのだろう」と言われた。
解説
集中しようとする時、私たちは周囲の音や情報が気になり、それらを遮断しようとします。しかし、この教えは、感覚を閉ざすことだけが集中ではないと示唆します。大切なのは、外部からの刺激があっても、それに「流されない」ことです。聞こえても、見えても、自分の内なる目標ややるべきことに意識を向け続ける。これは、日々の仕事や学習において、集中力を高めるための重要なヒントです。完全に遮断するのではなく、開いたままで動じない心の強さを養うことが求められます。
この章句が説くこと
只是雖聞見而不流去便是集中
関連する章句
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伝習録・陳九川録又た問う、「静坐して功を用うるに、頗る此の心の収斂するを覚ゆ。事に遇わば又た断え了る。旋(すなわ)ち個の念頭を起こし、事上に去きて省察す。事、過ぎて又た旧功を尋ぬ。還お内外有りて、打ちて一片と作さざるを覚ゆ」と。先生曰く、「此れ『格物』の説、未だ透らざるなり。心、何ぞ嘗て内外有らんや。即ち惟濬の今、此に在りて講論するが如きも、又た豈に一心の内に在りて照管する有らんや。這(こ)の講説を聴く時の専敬は、即ち是れ那(か)の静坐する時の心なり。功夫は一貫す。何ぞ須らく更に念頭を起こすべけんや。人は須らく事上に在りて磨錬し、功夫を做して乃ち益有るべし。若し只だ静を好み、事に遇わば便ち乱れば、終に長進無し。那の静なる時の功夫も亦た差う。収斂に似て、実は放溺なり」と。後、洪都に在りて、復た于中・国裳と内外の説を論ず。渠(かれ)ら皆な云う、物は自ら内外有り。但だ内外並びに功夫を著くるを要す。間有るべからざるのみ、と。以て先生に質す。曰く、「功夫は本体を離れず。本体は原と内外無し。只だ後来、功夫を做す者の内外を分かちて、其の本体を失うが為なり。如今、正に功夫の内外有るを要せざるを講明せんとす。乃ち是れ本体の功夫なり」と。是の日、倶に省有り。
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