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伝習録 / 答聶文蔚 二

孟氏「堯、舜之道,孝弟而已」者,是就人之良知發見得最真切篤厚、不容蔽昧處提省人。於人於事君、處友、仁民、愛物,與凡動靜語默間,皆只是致他那一念事親、從兄真誠惻怛的良知,即自然無不是道。蓋天下之事雖千變萬化,至於不可窮詰,而但惟致此事親、從兄一念真誠惻怛之良知以應之,則更無有遺缺滲漏者,正謂其只有此一個良知故也。事親、從兄一念良知之外,更無有良知可致得者。故曰:「堯、舜之道,孝弟而已矣。」此所以為「惟精惟一」之學,放之四海而皆準,施諸後世而無朝夕者也。文蔚云:「欲於事親、從兄之間,而求所謂良知之學。」就自己用工得力處如此說,亦無不可;若曰致其良知之真誠惻怛以求盡夫事親、從兄之道焉,亦無不可也。明道云:「行仁自孝、弟始。孝、弟是仁之一事,謂之行仁之本則可,謂是仁之本則不可。」其說是矣。「億、逆、先覺」之說,文蔚謂:「誠則旁行曲防,皆良知之用。」甚善甚善!閒有攙搭處,則前已言之矣。惟濬之言,亦未為不是,在文蔚須有取於惟濬之言而後盡,在惟濬又須有取於文蔚之言而後明。不然,則亦未免各有倚著之病也。舜察邇言而詢蒭蕘,非是以邇言當察,蒭蕘當詢,而後如此,乃良知之發見流行,光明圓瑩,更無罣礙遮隔處,此所以謂之大知;才有執著意必,其知便小矣。講學中自有去取分辨,然就心地上著實用工夫,卻須如此方是。「盡心」三節,區區曾有「生知、學知、困知」之說,頗已明白,無可疑者。蓋盡心、知性、知天者,不必說存心、養性、事天,不必說殀壽不貳、修身以俟,而「存心養性」與「修身以俟」之功已在其中矣。存心、養性、事天者,雖未到得盡心、知天的地位,然已是在那裏做個求到盡心、知天的工夫,更不必說殀壽不貳、修身以俟,而「殀壽不貳,修身以俟」之功已在其中矣。譬之行路,盡心、知天者,如年力壯健之人,既能奔走往來於數千百里之間者也;存心、事天者,如童穉之年,使之學習步趨於庭除之間者也;殀壽不貳、修身以俟者,如襁抱之孩,方便之扶牆傍壁,而漸學起立移步者也。既已能奔走往來於數千里之間者,則不必更使之於庭除之間而學步趨,而步趨於庭除之間,自無弗能矣;既已能步趨於庭除之間,則不必更使之扶牆傍壁而學起立移步,而起立移步自無弗能矣。然學起立移步,便是學步趨庭除之始;學步趨庭除,便是學奔走往來於數千里之基,固非有二事,但其工夫之難易則相去懸絕矣。心也,性也,天也,一也。故及其知之、成功則一,然而三者人品力量,自有階級,不可躐等而能也。細觀文蔚之論,其意以恐盡心、知天者,廢卻存心、修身之功,而反為盡心、知天之病;是蓋為聖人憂工夫之或間斷,而不知為自己憂工夫之未真切也。吾儕用工,卻須專心致志,在殀壽不貳、修身以俟上做,只此便是做盡心、知天工夫之始:正如學起立移步,便是學奔走千里之始。吾方自慮其不能起立移步,而豈遽其不能奔走千里,又況為奔走千里者而慮其或遺忘於起立移步之習哉!文蔚識見本自超絕邁往,而所論云然者,亦是未能脫去舊時解說文義之習,是為此三段書分疏比合,以求融會貫通,而自添許多意見纏繞,反使用工不專一也。近時懸空去做勿忘、勿助者,其意見正有此病,最能耽誤人,不可不滌除耳。所謂「尊德性而道問學」一節,至當歸一,更無可疑。此便是文蔚曾著實用功,然後能為此言。此本不是險僻難見的道理,人或意見不同者,還是良知尚有纖翳潛伏,若除去此纖翳,即自無不洞然矣。已作書後,移臥簷間,偶遇無事,遂復答此。文蔚之學既已得其大者,此等處久當釋然自解,本不必屑屑如此分疏;但承相愛之厚,千里差人遠及,諄諄下問,而竟虛來意,又自不能已於言也。然直戇煩縷已甚,恃在信愛,當不為罪。惟濬處及謙之、崇一處,各得轉錄一通寄視之,尤承一體之好也。右南大吉錄。

新字:孟氏「堯、舜之道,孝弟而已」者,是就人之良知発見得最真切篤厚、不容蔽昧処提省人。於人於事君、処友、仁民、愛物,与凡動静語黙間,皆只是致他那一念事親、従兄真誠惻怛的良知,即自然無不是道。蓋天下之事雖千変万化,至於不可窮詰,而但惟致此事親、従兄一念真誠惻怛之良知以応之,則更無有遺欠滲漏者,正謂其只有此一個良知故也。事親、従兄一念良知之外,更無有良知可致得者。故曰:「堯、舜之道,孝弟而已矣。」此所以為「惟精惟一」之學,放之四海而皆準,施諸後世而無朝夕者也。文蔚云:「欲於事親、従兄之間,而求所謂良知之學。」就自己用工得力処如此説,亦無不可;若曰致其良知之真誠惻怛以求尽夫事親、従兄之道焉,亦無不可也。明道云:「行仁自孝、弟始。孝、弟是仁之一事,謂之行仁之本則可,謂是仁之本則不可。」其説是矣。「億、逆、先覺」之説,文蔚謂:「誠則旁行曲防,皆良知之用。」甚善甚善!閒有攙搭処,則前已言之矣。惟濬之言,亦未為不是,在文蔚須有取於惟濬之言而後尽,在惟濬又須有取於文蔚之言而後明。不然,則亦未免各有倚著之病也。舜察邇言而詢蒭蕘,非是以邇言当察,蒭蕘当詢,而後如此,乃良知之発見流行,光明円瑩,更無罣礙遮隔処,此所以謂之大知;才有執著意必,其知便小矣。講學中自有去取分辨,然就心地上著実用工夫,卻須如此方是。「尽心」三節,区区曽有「生知、學知、困知」之説,頗已明白,無可疑者。蓋尽心、知性、知天者,不必説存心、養性、事天,不必説殀寿不貳、修身以俟,而「存心養性」与「修身以俟」之功已在其中矣。存心、養性、事天者,雖未到得尽心、知天的地位,然已是在那裏做個求到尽心、知天的工夫,更不必説殀寿不貳、修身以俟,而「殀寿不貳,修身以俟」之功已在其中矣。譬之行路,尽心、知天者,如年力壮健之人,既能奔走往来於数千百里之間者也;存心、事天者,如童穉之年,使之學習歩趨於庭除之間者也;殀寿不貳、修身以俟者,如襁抱之孩,方便之扶牆傍壁,而漸學起立移歩者也。既已能奔走往来於数千里之間者,則不必更使之於庭除之間而學歩趨,而歩趨於庭除之間,自無弗能矣;既已能歩趨於庭除之間,則不必更使之扶牆傍壁而學起立移歩,而起立移歩自無弗能矣。然學起立移歩,便是學歩趨庭除之始;學歩趨庭除,便是學奔走往来於数千里之基,固非有二事,但其工夫之難易則相去懸絶矣。心也,性也,天也,一也。故及其知之、成功則一,然而三者人品力量,自有階級,不可躐等而能也。細観文蔚之論,其意以恐尽心、知天者,廃卻存心、修身之功,而反為尽心、知天之病;是蓋為聖人憂工夫之或間断,而不知為自己憂工夫之未真切也。吾儕用工,卻須専心致志,在殀寿不貳、修身以俟上做,只此便是做尽心、知天工夫之始:正如學起立移歩,便是學奔走千里之始。吾方自慮其不能起立移歩,而豈遽其不能奔走千里,又況為奔走千里者而慮其或遺忘於起立移歩之習哉!文蔚識見本自超絶邁往,而所論云然者,亦是未能脫去旧時解説文義之習,是為此三段書分疏比合,以求融会貫通,而自添許多意見纏繞,反使用工不専一也。近時懸空去做勿忘、勿助者,其意見正有此病,最能耽誤人,不可不滌除耳。所謂「尊徳性而道問學」一節,至当歸一,更無可疑。此便是文蔚曽著実用功,然後能為此言。此本不是険僻難見的道理,人或意見不同者,還是良知尚有繊翳潜伏,若除去此繊翳,即自無不洞然矣。已作書後,移臥簷間,偶遇無事,遂復答此。文蔚之學既已得其大者,此等処久当釈然自解,本不必屑屑如此分疏;但承相愛之厚,千里差人遠及,諄諄下問,而竟虚来意,又自不能已於言也。然直戇煩縷已甚,恃在信愛,当不為罪。惟濬処及謙之、崇一処,各得転録一通寄視之,尤承一体之好也。右南大吉録。

書き下し

孟氏の「堯・舜の道は、孝弟のみ」とは、是れ人の良知の発見し得ること最も真切篤厚にして、蔽昧を容れざる処に就きて人を提省す。人に於て、君に事え、友に処し、民を仁とし、物を愛し、凡そ動静語黙の間に於て、皆な只だ是れ他の一念の親に事え兄に従うの真誠惻怛の良知を致さば、即ち自然に道に非ざる無し。蓋し天下の事は千変万化、窮詰すべからざるに至ると雖も、而も但だ惟だ此の親に事え兄に従う一念の真誠惻怛の良知を致して以て之に応ぜば、則ち更に遺缺滲漏有る者無し。正に其の只だ此の一個の良知有るを謂うが故なり。親に事え兄に従う一念の良知の外、更に良知の致し得べき者有る無し。故に曰く、「堯・舜の道は、孝弟のみ」と。此れ「惟れ精惟れ一」の学と為す所以にして、之を四海に放ちて皆な準じ、諸を後世に施して朝夕無き者なり。文蔚云う、「親に事え兄に従うの間に於て、所謂る良知の学を求めんと欲す」と。自己の工を用いて力を得る処に就きて此くの如く説くも、亦た不可なる無し。若し其の良知の真誠惻怛を致して以て夫の親に事え兄に従うの道を尽くさんことを求むと曰わば、亦た不可なる無きなり。明道云う、「仁を行うは孝・弟より始む。孝・弟は是れ仁の一事なり。之を仁を行うの本と謂わば則ち可なり。是れ仁の本なりと謂わば則ち不可なり」と。其の説、是なり。「億・逆・先覚」の説は、文蔚、「誠ならば則ち旁行曲防、皆な良知の用なり」と謂う。甚だ善し、甚だ善し。「心を尽くす」三節は、区区、曾て「生知・学知・困知」の説有り。頗る已に明白にして、疑うべき無き者なり。之を路を行くに譬うれば、心を尽くし天を知る者は、年力壮健の人の、既に能く数千百里の間に奔走往来する者の如きなり。心を存し天に事うる者は、童穉の年、之をして庭除の間に歩趨を学習せしむる者の如きなり。殀寿貳わず、身を修めて以て俟つ者は、襁抱の孩の、方に之を扶けて牆に傍い壁に傍いて、漸く起立移歩を学ぶ者の如きなり。既に已に能く数千里の間に奔走往来する者は、則ち更に之をして庭除の間に歩趨を学ばしむるを必とせず。既に已に能く庭除の間に歩趨せば、則ち更に之をして牆に扶り壁に傍いて起立移歩を学ばしむるを必とせず。然れども起立移歩を学ぶは、便ち是れ庭除に歩趨を学ぶの始めなり。庭除に歩趨を学ぶは、便ち是れ数千里に奔走往来するを学ぶの基なり。固より二事有るに非ず。但だ其の工夫の難易は則ち相い去ること懸絶なり。心なり、性なり、天なり、一なり。故に其の之を知り、功を成すに及びては則ち一なり。然り而して三者は人品力量、自ら階級有り。等を躐(こ)えて能くすべからざるなり。細かに文蔚の論を観るに、其の意は恐らくは心を尽くし天を知る者、存心・修身の功を廃却して、反りて心を尽くし天を知るの病と為らんことを以てす。是れ蓋し聖人の為に工夫の或いは間断せんことを憂えて、自己の為に工夫の未だ真切ならざるを憂うるを知らざるなり。吾儕の工を用うるは、却って須らく専心致志、殀寿貳わず、身を修めて以て俟つの上に在りて做すべし。只だ此れ便ち是れ心を尽くし天を知る工夫を做すの始めなり。正に起立移歩を学ぶは、便ち是れ千里に奔走するを学ぶの始めなるが如し。吾は方に自ら其の起立移歩する能わざるを慮る。而るに豈に遽かに其の千里に奔走する能わざるを慮らんや。又た況んや千里に奔走する者の為に其の或いは起立移歩の習に遺忘せんことを慮らんや。

現代語訳

孟子の「堯・舜の道は、孝と弟だけだ」とは、人の良知が最も真切に、覆いようもなく現れる所を指して人を目覚めさせる言葉だ。君に仕え、友と交わり、民を慈しみ、物を愛し、動静や言葉の間で、ただ親に仕え兄に従う一念の真誠惻怛の良知を致せば、自然に道でないものはない。天下の事は千変万化して窮め尽くせないが、ただこの一念の良知を致して応じれば、漏れがない。この一つの良知しかないからだ。それ以外に、致すべき良知はない。だから「堯・舜の道は、孝と弟だけだ」と言う。「心を尽くす」三節については、以前「生知・学知・困知」の説を述べた。道を行くのに譬えれば、心を尽くし天を知る者は、壮健な人がすでに数千里を走り回れるようなものだ。心を保ち天に仕える者は、幼児が庭で歩き方を習うようなものだ。長命短命を疑わず身を修めて待つ者は、赤子が壁を伝って立ち上がり歩き始めるようなものだ。しかし立ち上がって歩を移すことを学ぶのが、庭で歩き方を学ぶ始めであり、庭で歩くのが、千里を走る基だ。二つの事ではない。ただ難易は懸け隔たっている。心も性も天も一つだ。だから知り、功を成せば一つだが、三者には人の力量に段階があり、飛び越えられない。あなたの論は、心を尽くし天を知る者が存心・修身の功を廃するのを心配している。それは聖人のために工夫の途切れを憂えて、自分のために工夫がまだ真剣でないことを憂えるのを知らないのだ。我々は、長命短命を疑わず身を修めて待つ所で専心すべきだ。それが心を尽くし天を知る工夫の始めだ。私はまだ自分が立ち上がって歩けないことを心配している。どうして千里を走れないことを心配しよう。

解説

「私はまだ立ち上がって歩けないことを心配している。どうして千里を走れないことを心配しよう」。聖人の段階の心配をする前に、自分の足元を見よ。他人の心配は、自分の甘さの裏返しなのです。

この章句が説くこと

吾方自慮其不能起立移歩而豈遽其不能奔走千里

この一句を、あなたの毎日に。

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