伝習録 / 答聶文蔚
春間遠勞迂途枉顧,問證惓倦,此情何可當也!已期二三同志,更處靜地,扳留旬日,少效其鄙見,以求切劘之益,而公期俗絆,勢有不能,別去極怏怏,如有所失。忽承箋惠,反覆千餘言,讀之無甚浣慰。中間推許太過,蓋亦獎掖之盛心,而規礪真切,思欲納之於賢聖之域,又託諸崇一以致其勤勤懇懇之懷,此非深交篤愛,何以及是;知感知愧,且懼其無以堪之也。雖然,僕亦何敢不自鞭勉,而徒以感愧辭讓為乎哉!其謂「思、孟、周、程無意相遭於千載之下,與其盡信於天下,不若真信於一人。道固自在,學亦自在,天下信之不為多,一人信之不為少」者,斯固君子「不見是而無悶」之心,豈世之謭謭屑屑者知足以及之乎!乃僕之情,則有大不得已者存乎其間,而非以計人之信與不信也。夫人者,天地之心,天地萬物本吾一體者也。生民之困苦荼毒,孰非疾痛之切於吾身者乎?不知吾身之疾痛,無是非之心者也。是非之心不慮而知,不學而能,所謂「良知」也。良知之在人心,無間於聖愚,天下古今之所同也。世之君子惟務其良知,則自能公是非,同好惡,視人猶己,視國猶家,而以天地萬物為一體,求天下無冶,不可得矣。古之人所以能見善不啻若己出,見惡不啻若己入,視民之飢溺猶己之飢溺,而一夫不獲,若己推而納諸溝中者,非故為是而以蘄天下之信己也,務致其良知求自慊而已矣。堯、舜、三王之聖,言而民莫不信者,致其良知而言之也,行而民莫不說者,致其良知而行之也。是以其民熙熙皞皞,殺之不怨,利之不庸,施及蠻貊,而凡有血氣者莫不尊親,為其良知之同也。嗚呼!聖人之治天下,何其簡且易哉!
新字:春間遠労迂途枉顧,問証惓倦,此情何可当也!已期二三同志,更処静地,扳留旬日,少効其鄙見,以求切劘之益,而公期俗絆,勢有不能,別去極怏怏,如有所失。忽承箋恵,反覆千余言,読之無甚浣慰。中間推許太過,蓋亦獎掖之盛心,而規礪真切,思欲納之於賢聖之域,又託諸崇一以致其勤勤懇懇之懐,此非深交篤愛,何以及是;知感知愧,且懼其無以堪之也。雖然,僕亦何敢不自鞭勉,而徒以感愧辞譲為乎哉!其謂「思、孟、周、程無意相遭於千載之下,与其尽信於天下,不若真信於一人。道固自在,学亦自在,天下信之不為多,一人信之不為少」者,斯固君子「不見是而無悶」之心,豈世之謭謭屑屑者知足以及之乎!乃僕之情,則有大不得已者存乎其間,而非以計人之信与不信也。夫人者,天地之心,天地万物本吾一体者也。生民之困苦荼毒,孰非疾痛之切於吾身者乎?不知吾身之疾痛,無是非之心者也。是非之心不慮而知,不学而能,所謂「良知」也。良知之在人心,無間於聖愚,天下古今之所同也。世之君子惟務其良知,則自能公是非,同好悪,視人猶己,視国猶家,而以天地万物為一体,求天下無冶,不可得矣。古之人所以能見善不啻若己出,見悪不啻若己入,視民之飢溺猶己之飢溺,而一夫不獲,若己推而納諸溝中者,非故為是而以蘄天下之信己也,務致其良知求自慊而已矣。堯、舜、三王之聖,言而民莫不信者,致其良知而言之也,行而民莫不説者,致其良知而行之也。是以其民熙熙皞皞,殺之不怨,利之不庸,施及蠻貊,而凡有血気者莫不尊親,為其良知之同也。嗚呼!聖人之治天下,何其簡且易哉!
書き下し
春の間、遠く迂途を労して枉顧され、証を問うこと惓倦たり。此の情、何ぞ当たるべけんや。已に二三の同志を期し、更に静地に処し、旬日を扳留して、少しく其の鄙見を効し、以て切劘の益を求めんとす。而して公は俗絆に期せられ、勢い能わざる有り。別れ去りて極めて怏怏、失う所有るが如し。忽ち箋恵を承く。反覆千余言、之を読みて甚だ浣慰無きこと無し。中間、推許は太だ過ぎたり。蓋し亦た奨掖の盛心なり。而して規礪は真切にして、之を賢聖の域に納れんと欲するを思い、又た諸を崇一に託して以て其の勤勤懇懇の懐いを致す。此れ深交篤愛に非ずんば、何を以て是に及ばんや。感を知り愧を知り、且つ其の以て之に堪うる無きを懼るるなり。然りと雖も、僕、亦た何ぞ敢えて自ら鞭勉せずして、徒らに感愧辞譲を以て為さんや。其の「思・孟・周・程は意無くして千載の下に相い遭う。其の天下に尽く信ぜらるるよりは、一人に真に信ぜらるるに若かず。道は固より自ら在り、学も亦た自ら在り。天下、之を信ずるも多しと為さず、一人、之を信ずるも少なしと為さず」と謂うは、斯れ固より君子の「是とせられずして悶ゆる無し」の心なり。豈に世の謭謭屑屑たる者の知りて以て之に及ぶに足らんや。乃ち僕の情は、則ち大いに已むを得ざる者、其の間に存する有り。而して以て人の信ずると信ぜざるとを計るに非ざるなり。夫れ人なる者は、天地の心なり。天地万物は本と吾と一体なる者なり。生民の困苦荼毒は、孰か吾が身に切なる疾痛に非ざらんや。吾が身の疾痛を知らざるは、是非の心無き者なり。是非の心は、慮らずして知り、学ばずして能くす。所謂る「良知」なり。良知の人心に在るは、聖愚に間無く、天下古今の同じくする所なり。世の君子、惟だ其の良知を務めば、則ち自ら能く是非を公にし、好悪を同じくし、人を視ること己の猶く、国を視ること家の猶くして、天地万物を以て一体と為さん。天下の治まらざるを求むるも、得べからざらん。古の人の善を見ること己より出づるに啻(ただ)ならざるが若く、悪を見ること己に入るに啻ならざるが若く、民の飢溺を視ること己の飢溺の猶くにして、一夫の獲ざるは、己、推して諸を溝中に納るるが若き者は、故らに是を為して以て天下の己を信ずるを蘄(もと)むるに非ず。務めて其の良知を致して自ら慊るを求むるのみ。堯・舜・三王の聖、言いて民、信ぜざる莫きは、其の良知を致して之を言えばなり。行いて民、説ばざる莫きは、其の良知を致して之を行えばなり。是を以て其の民は熙熙皞皞、之を殺すも怨みず、之を利するも庸(こう)とせず、蛮貊に施し及ぼして、凡そ血気有る者は尊親せざる莫し。其の良知の同じきが為なり。嗚呼、聖人の天下を治むる、何ぞ其れ簡にして且つ易きや。
現代語訳
春に、遠く回り道をして訪ねてくださり、切実に問われた。この情にどう報いられよう。二、三の同志と静かな地で十日ほど引き留めて、私の見解を尽くし、磨き合う益を求めようとしました。しかしあなたは世事に縛られ、叶わなかった。別れて心残りで、何かを失ったようでした。突然お手紙をいただき、千余言を繰り返し読んで、慰められました。中に「思子・孟子・周敦頤・程子は、心を通わせようとせずとも千年の後に出会う。天下に信じられるより、一人に真に信じられるほうがよい。道はもとよりあり、学もある。天下が信じても多くなく、一人が信じても少なくない」とあるのは、君子の「是とされなくても悶えない」心です。しかし私には、大いにやむを得ないものがある。人の信不信を計算しているのではない。人は天地の心だ。天地万物はもともと私と一体だ。人々の困苦や苦しみは、どれも私の身に切実な痛みでないものはない。自分の身の痛みを知らないのは、是非の心がない者だ。是非の心は、慮らずに知り、学ばずにできる。これが「良知」だ。良知が人の心にあるのは、聖人でも愚者でも同じ、天下古今に共通だ。世の君子が良知に務めれば、是非を公にし、好悪を同じくし、人を自分のように見、国を家のように見て、天地万物を一体とする。天下が治まらないことを求めても、できないだろう。昔の人が、善を見れば自分から出たかのように喜び、悪を見れば自分が汚れたかのように恥じ、民の飢えを自分の飢えのように見、一人でも救えなければ自分が溝に突き落としたように感じたのは、天下に信じられたくてそうしたのではない。良知を致して自ら満ち足りることを求めただけだ。堯・舜・三王が言えば民が信じたのは、良知を致して言ったからだ。行えば民が喜んだのは、良知を致して行ったからだ。だから民は和やかで、殺されても怨まず、利されても恩に着ず、遠い異民族にまで及んで、血気ある者はみな尊び親しんだ。良知が同じだからだ。ああ、聖人が天下を治めるのは、なんと簡単で易しいことか。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
伝習録・答聶文蔚 二孟氏の「堯・舜の道は、孝弟のみ」とは、是れ人の良知の発見し得ること最も真切篤厚にして、蔽昧を容れざる処に就きて人を提省す。人に於て、君に事え、友に処し、民を仁とし、物を愛し、凡そ動静語黙の間に於て、皆な只だ是れ他の一念の親に事え兄に従うの真誠惻怛の良知を致さば、即ち自然に道に非ざる無し。蓋し天下の事は千変万化、窮詰すべからざるに至ると雖も、而も但だ惟だ此の親に事え兄に従う一念の真誠惻怛の良知を致して以て之に応ぜば、則ち更に遺缺滲漏有る者無し。正に其の只だ此の一個の良知有るを謂うが故なり。親に事え兄に従う一念の良知の外、更に良知の致し得べき者有る無し。故に曰く、「堯・舜の道は、孝弟のみ」と。此れ「惟れ精惟れ一」の学と為す所以にして、之を四海に放ちて皆な準じ、諸を後世に施して朝夕無き者なり。文蔚云う、「親に事え兄に従うの間に於て、所謂る良知の学を求めんと欲す」と。自己の工を用いて力を得る処に就きて此くの如く説くも、亦た不可なる無し。若し其の良知の真誠惻怛を致して以て夫の親に事え兄に従うの道を尽くさんことを求むと曰わば、亦た不可なる無きなり。明道云う、「仁を行うは孝・弟より始む。孝・弟は是れ仁の一事なり。之を仁を行うの本と謂わば則ち可なり。是れ仁の本なりと謂わば則ち不可なり」と。其の説、是なり。「億・逆・先覚」の説は、文蔚、「誠ならば則ち旁行曲防、皆な良知の用なり」と謂う。甚だ善し、甚だ善し。「心を尽くす」三節は、区区、曾て「生知・学知・困知」の説有り。頗る已に明白にして、疑うべき無き者なり。之を路を行くに譬うれば、心を尽くし天を知る者は、年力壮健の人の、既に能く数千百里の間に奔走往来する者の如きなり。心を存し天に事うる者は、童穉の年、之をして庭除の間に歩趨を学習せしむる者の如きなり。殀寿貳わず、身を修めて以て俟つ者は、襁抱の孩の、方に之を扶けて牆に傍い壁に傍いて、漸く起立移歩を学ぶ者の如きなり。既に已に能く数千里の間に奔走往来する者は、則ち更に之をして庭除の間に歩趨を学ばしむるを必とせず。既に已に能く庭除の間に歩趨せば、則ち更に之をして牆に扶り壁に傍いて起立移歩を学ばしむるを必とせず。然れども起立移歩を学ぶは、便ち是れ庭除に歩趨を学ぶの始めなり。庭除に歩趨を学ぶは、便ち是れ数千里に奔走往来するを学ぶの基なり。固より二事有るに非ず。但だ其の工夫の難易は則ち相い去ること懸絶なり。心なり、性なり、天なり、一なり。故に其の之を知り、功を成すに及びては則ち一なり。然り而して三者は人品力量、自ら階級有り。等を躐(こ)えて能くすべからざるなり。細かに文蔚の論を観るに、其の意は恐らくは心を尽くし天を知る者、存心・修身の功を廃却して、反りて心を尽くし天を知るの病と為らんことを以てす。是れ蓋し聖人の為に工夫の或いは間断せんことを憂えて、自己の為に工夫の未だ真切ならざるを憂うるを知らざるなり。吾儕の工を用うるは、却って須らく専心致志、殀寿貳わず、身を修めて以て俟つの上に在りて做すべし。只だ此れ便ち是れ心を尽くし天を知る工夫を做すの始めなり。正に起立移歩を学ぶは、便ち是れ千里に奔走するを学ぶの始めなるが如し。吾は方に自ら其の起立移歩する能わざるを慮る。而るに豈に遽かに其の千里に奔走する能わざるを慮らんや。又た況んや千里に奔走する者の為に其の或いは起立移歩の習に遺忘せんことを慮らんや。
-
伝習録・答顧東橋書夫れ抜本塞源の論、天下に明らかならずんば、則ち天下の聖人を学ぶ者、将に日に繁く日に難く、斯の人は禽獣・夷狄に淪(しず)みて、猶お自ら以て聖人の学と為さんとす。吾が説は或いは暫く一時に明らかなりと雖も、終に将に西に凍解して東に冰堅く、前に霧釈けて後に雲滃(わ)き、呶呶焉として危困して以て死し、卒に天下の分毫を救う無からんとするのみ。夫れ聖人の心は、天地万物を以て一体と為す。其の天下の人を視るや、外内遠近と無く、凡そ血気有らば、皆な其の昆弟赤子の親なり。安全にして之を教養し、以て其の万物一体の念を遂げんと欲せざる莫し。天下の人心も、其の始めは亦た聖人に異なる有るに非ざるなり。特(た)だ其の我有るの私に間(へだ)てられ、物欲の蔽いに隔てられ、大なる者は以て小に、通ずる者は以て塞がる。人、各々心有り、其の父子兄弟を視ること仇讎の如き者有るに至る。聖人、之を憂うる有り。是を以て其の天地万物一体の仁を推して以て天下に教え、之をして皆な以て其の私に克ち、其の蔽いを去り、以て其の心体の同然に復する有らしむ。其の教えの大端は、則ち堯・舜・禹の相い授受する、所謂る「道心は惟れ微なり。惟れ精惟れ一、允に厥の中を執れ」なり。而して其の節目は、則ち舜の契に命ずる、所謂る「父子に親有り、君臣に義有り、夫婦に別有り、長幼に序有り、朋友に信有り」の五者のみ。唐・虞・三代の世、教うる者は惟だ此を以て教えと為し、而して学ぶ者は惟だ此を以て学と為す。是の時に当たりて、人に異見無く、家に異習無し。此に安んずる者、之を聖と謂い、此に勉むる者、之を賢と謂い、而して此に背く者は、其の啓明なること朱の如しと雖も、亦た之を不肖と謂う。下は閭井・田野・農・工・商・賈の賤に至るまで、皆な是の学有らざる莫くして、惟だ其の徳行を成すを以て務めと為す。何となれば、聞見の雑、記誦の煩、辞章の靡濫、功利の馳逐有る無くして、但だ其の親に孝し、其の長に弟し、其の朋友に信あらしめ、以て其の心体の同然に復せしむればなり。是れ蓋し性分の固有する所にして、外に仮る有るに非ず。則ち人も亦た孰か之を能くせざらんや。
-
伝習録・答顧東橋書来書に云う、「道の大端は明白なり易し。所謂る『良知・良能は、愚夫愚婦も与に及ぶべし』なり。節目時変の詳、毫釐千里の謬りに至りては、必ず学を待ちて而る後に知る。今、孝を温凊定省に語らば、孰か之を知らざらん。舜の告げずして娶り、武の葬らずして師を興し、志を養い口を養い、小杖・大杖、股を割き墓に廬するの等の事、常に処し変に処し、過と不及との間に至りては、必ず須らく是非を討論して、以て事を制するの本と為し、然る後に心体に蔽い無く、事に臨みて失う無かるべし」と。「道の大端は明白なり易し」。此の語は誠に然り。顧(おも)うに後の学者は其の明白なり易き者を忽(ゆるが)せにして由らず、而して其の明白なり難き者を求めて以て学と為す。此れ其の「道は邇(ちか)きに在るに諸を遠きに求め、事は易きに在るに諸を難きに求む」る所以なり。孟子云う、「夫れ道は大路の若く然り。豈に知り難からんや。人、由らざるを病むのみ」と。良知・良能は、愚夫・愚婦も聖人と同じ。但だ惟だ聖人のみ能く其の良知を致す。而して愚夫・愚婦は致す能わず。此れ聖・愚の由りて分かるる所なり。節目時変は、聖人、夫れ豈に知らざらんや。但だ専ら此を以て学と為さず。而して其の所謂る学なる者は、正に惟だ其の良知を致し、以て此の心の天理を精審して、後世の学と同じからざるのみ。吾子、未だ真知の致を暇(いとま)せずして、汲汲焉として是を顧みるを憂う。此れ正に其の明白なり難き者を求めて以て学と為すの蔽なり。夫れ良知の節目時変に於けるや、猶お規矩・尺度の方円・長短に於けるがごときなり。節目時変の預め定むべからざるは、猶お方円・長短の勝げて窮むべからざるがごとし。故に規矩、誠に立たば、則ち欺くに方円を以てすべからずして、天下の方円は勝げて用うべからず。尺度、誠に陳(つら)ならば、則ち欺くに長短を以てすべからずして、天下の長短は勝げて用うべからず。良知、誠に致さば、則ち欺くに節目時変を以てすべからずして、天下の節目時変は勝げて応ずべからず。毫釐千里の謬り、吾が心の良知の一念の微に於て之を察せずんば、亦た将た何の所にか其の学を用いんや。是れ規矩を以てせずして天下の方円を定めんと欲し、尺度を以てせずして天下の長短を尽くさんと欲するなり。吾は其の乖張謬戻し、日に労して成る無きを見るのみ。
-
伝習録・答陸原静書 又来書に云う、「聡明睿知は果たして質か。仁義礼智は果たして性か。喜怒哀楽は果たして情か。私欲客気は果たして一物か、二物か。古の才の若き、子房・仲舒・叔度・孔明・文中・韓・范の諸公の如きは、徳業表著し、皆な良知の中より発する所なり。而して之を道を聞く者と謂うを得ざるは、果たして何に在るか。苟も此れ特に生質の美なるのみと曰わば、則ち生知・安行の者は、学知・困勉の者に愈(まさ)らざらんや。愚意、竊かに云う、諸公は道を見ること偏なりと謂わば則ち可なり。全く聞く無しと謂わば則ち恐らくは後儒の記誦訓詁を崇尚するの過ならん。然るや否や」と。性は一なるのみ。仁・義・礼・知は、性の性なり。聡・明・睿・知は、性の質なり。喜・怒・哀・楽は、性の情なり。私欲・客気は、性の蔽なり。質に清濁有り。故に情に過不及有りて、蔽に浅深有るなり。私欲・客気は、一病両痛にして、二物に非ざるなり。張・黄・諸葛及び韓・范の諸公は、皆な天質の美にして、自ら道の妙に暗合すること多し。未だ尽くは之を学を知ると謂うべからず、尽くは之を道を聞くと謂うべからずと雖も、然れども亦た自ら其の学有りて、道を違ること遠からざる者なり。其れをして学を聞き道を知らしめば、即ち伊・傅・周・召ならん。夫れ良知は即ち是れ道なり。良知の人心に在るは、但だ聖賢のみならず、常人と雖も亦た此くの如くならざる無し。若し物欲の牽蔽する有る無くんば、但だ真知の発用流行に循い将ち去らば、即ち道に非ざる無し。但だ常人に在りては多く物欲に牽蔽せられ、良知に循い得る能わず。数公の如き者は、天質、既に自ら清明にして、自ら少く物欲の之を牽蔽する為れば、則ち其の良知の発用流行する処、自然に是れ多く、自然に道を違ること遠からず。学者は此の良知に循うを学ぶのみ。之を学を知ると謂うは、只だ是れ専ら良知に循うを学ぶに在るを知るなり。数公は未だ専ら良知の上に功を用うるを知らずして、或いは多岐に汎濫し、影響に疑迷す。是を以て或いは離れ或いは合して未だ純ならず。若し知り得る時は、便ち是れ聖人ならん。
-
伝習録・答聶文蔚僕は誠に天の霊に頼り、偶々良知の学に見る有り。以為えらく、必ず此に由りて、而る後に天下は得て治むべしと。是を以て斯の民の陥溺を念う毎に、則ち之が為に戚然として心を痛め、其の身の不肖を忘れて、此を以て之を救わんことを思う。亦た自ら其の量を知らざる者なり。天下の人、其の是くの若きを見て、遂に相い与に之を非笑して詆斥し、以て是れ病狂喪心の人なりと為すのみ。嗚呼、是れ奚ぞ恤(うれ)うるに足らんや。吾は方に疾痛の体に切なり。而るに人の非笑を計るに暇あらんや。人、固より其の父子兄弟の深淵に墜溺するを見る者有らば、呼号匍匐し、裸跣顛頓して、懸崖壁を扳(よ)じて下りて之を拯(すく)わん。士の見る者は、方に相い与に其の傍らに揖譲談笑して、以て是れ其の礼貌衣冠を棄てて呼号顛頓すること此くの若きは、是れ病狂喪心の者なりと為さん。故に夫れ溺るる人の傍らに揖譲談笑して救うを知らざるは、此れ惟だ行路の人、親戚骨肉の情無き者のみ之を能くす。然れども已に之を惻隠の心無く、人に非ずと謂うなり。若し夫れ父子兄弟の愛に在る者は、則ち固より未だ心を痛め首を疾ましめ、狂奔し気を尽くし、匍匐して之を拯わざる有らず。彼は将に陥溺の禍を顧みざる有らんとす。而るを況んや病狂喪心の譏りに於てをや。又た況んや人の信ずると信ぜざるとを蘄むるに於てをや。嗚呼、今の人、僕を病狂喪心の人と謂うと雖も、亦た不可なる無きなり。天下の人心は、皆な吾が心なり。天下の人に猶お病狂なる者有り。吾、安くんぞ得て病狂に非ざらんや。猶お喪心なる者有り。吾、安くんぞ得て喪心に非ざらんや。
-
伝習録・答欧陽崇一来書に又た云う有り、「人情の機詐は百出す。之を御するに疑わざるを以てせば、往往にして欺かるる所と為る。覚らば則ち自ら逆億に入る。夫れ詐を逆(むか)うるは、即ち詐なり。信ならざるを億(おしはか)るは、即ち信に非ざるなり。人に欺かるるは、又た覚に非ざるなり。逆えず、億らずして常に先に覚るは、其れ惟だ良知の瑩徹なるか。然り而して出入は毫忽の間、覚に背きて詐に合する者多し」と。逆えず、億らずして先に覚るとは、此れ孔子、当時の人が専ら詐を逆え、信ならざるを億るを以て心と為し、而して自ら詐と不信とに陥るに因る。又た逆えず億らざる者有り。然れども良知を致すの功を知らずして、往往にして又た人に欺詐せらる。故に是の言有り。人に教うるに是を以て心に存し、専ら人の詐と不信とを先覚せんと欲せしむるに非ざるなり。是を以て心に存せば、即ち是れ後世の猜忌険薄なる者の事なり。而して只だ此の一念、已に与に堯・舜の道に入るべからず。逆えず、億らずして人に欺かるる者は、尚お亦た先ず善を為さずと雖も、但だ能く其の良知を致して自然に先覚する者の尤も賢なるに如かざるのみ。崇一の「其れ惟だ良知の瑩徹なるか」と謂うは、蓋し已に其の旨を得たり。然れども亦た穎悟の及ぶ所にして、恐らくは未だ実際ならざらん。蓋し良知の人心に在るや、万古に亘り、宇宙に塞(み)ちて同じからざる無し。慮らずして知り、恒に易にして以て険を知り、学ばずして能くし、恒に簡にして以て阻を知る。天に先んじて天も違わず。天すら且つ違わず、而るを況んや人に於てをや。況んや鬼神に於てをや。夫れ覚に背きて詐に合すと謂う者は、是れ人を逆えずと雖も或いは未だ自ら欺かざる能わざるなり。人を億らずと雖も或いは未だ果たして自ら信ずる能わざるなり。是れ或いは常に先覚を求むるの心有りて、未だ常に自ら覚る能わざるなり。常に先覚を求むるの心有らば、即ち已に逆・億に流れて以て自ら其の良知を蔽うに足れり。此れ覚に背きて詐に合するの免れざる所以なり。君子は学びて以て己が為にす。未だ嘗て人の己を欺くを虞(おそ)れず。恒に自ら其の良知を欺かざるのみ。未だ嘗て人の己を信ぜざるを虞れず。恒に自ら其の良知を信ずるのみ。未だ嘗て人の詐と不信とを先覚せんことを求めず。恒に自ら其の良知を覚るを務むるのみ。是の故に欺かざれば則ち良知は偽る所無くして誠なり。誠なれば則ち明らかなり。自ら信ずれば則ち良知は惑う所無くして明らかなり。明らかなれば則ち誠なり。明・誠、相い生ず。是の故に良知は常に覚り常に照らす。常に覚り常に照らせば則ち明鏡の懸かるが如くにして、物の来たる者は自ら其の妍醜を遁るる能わず。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る