伝習録 / 答羅整菴少宰書
凡執事所以致疑於「格物」之說者:必謂其是內而非外也;必謂其專事於反觀、內省之為,而遺棄其講習、討論之功也;必謂其一意於綱領、本原之約,而脫略於支條、節目之詳也;必謂其沈溺於枯、槁、虛、寂之偏,而不盡於物理、人事之變也。審如是,豈但獲罪於聖門、獲罪於朱子,是邪說誣民,叛道亂正,人得而誅之也,而況於執事之正直哉?審如是,世之稍明訓詁,聞先哲之緒論者,皆知其非也,而況執事之高明哉?凡某之所謂「格物」,其於朱子九條之說,皆包羅統括於其中;但為之有要,作用不同,正所謂毫釐之差耳。然毫釐之差,而千里之繆,實起於此,不可不辨。
新字:凡執事所以致疑於「格物」之説者:必謂其是内而非外也;必謂其専事於反観、内省之為,而遺棄其講習、討論之功也;必謂其一意於綱領、本原之約,而脱略於支条、節目之詳也;必謂其沈溺於枯、槁、虚、寂之偏,而不尽於物理、人事之変也。審如是,豈但獲罪於聖門、獲罪於朱子,是邪説誣民,叛道乱正,人得而誅之也,而況於執事之正直哉?審如是,世之稍明訓詁,聞先哲之緒論者,皆知其非也,而況執事之高明哉?凡某之所謂「格物」,其於朱子九条之説,皆包羅統括於其中;但為之有要,作用不同,正所謂毫釐之差耳。然毫釐之差,而千里之繆,実起於此,不可不弁。
書き下し
凡そ執事の「格物」の説に疑いを致す所以の者は、必ず其の内を是として外を非とすと謂わん。必ず其の専ら反観・内省の為に事として、其の講習・討論の功を遺棄すと謂わん。必ず其の綱領・本原の約に一意して、支条・節目の詳を脱略すと謂わん。必ず其の枯・槁・虚・寂の偏に沈溺して、物理・人事の変を尽くさずと謂わん。審らかに是くの如くんば、豈に但だ聖門に罪を獲、朱子に罪を獲るのみならんや。是れ邪説もて民を誣い、道に叛き正を乱す。人、得て之を誅すべきなり。而るを況んや執事の正直に於てをや。審らかに是くの如くんば、世の稍(やや)訓詁に明らかにして、先哲の緒論を聞く者も、皆な其の非なるを知らん。而るを況んや執事の高明に於てをや。凡そ某の所謂る「格物」は、其の朱子の九条の説に於て、皆な其の中に包羅統括す。但だ之を為すに要有り。作用、同じからず。正に所謂る毫釐の差なるのみ。然れども毫釐の差にして、千里の繆り、実に此に起こる。辨ぜざるべからず。
現代語訳
あなたが「格物」の説に疑いを持たれるのは、必ず内を是とし外を非とすると考え、内省だけを事として講習・討論の功を捨て、綱領・本原の要約だけに一意して細目の詳細を省き、枯れて虚しい静寂に沈溺して物理・人事の変化を尽くさないと考えるからでしょう。本当にそうなら、聖人の門に罪を得、朱子に罪を得るだけでなく、邪説で民を誣い、道に叛き正を乱すことになり、誰でも誅してよい。ましてあなたのような正直な方なら。本当にそうなら、少し訓詁に明るく先哲の議論を聞いた者もみな誤りだと分かるでしょう。ましてあなたのような高明な方なら。私の「格物」は、朱子の九条の説をみな包み込んでいる。ただ、行うのに要があり、働きが違う。まさにわずかな差だ。しかしわずかな差から千里の誤りが起こる。論じないわけにいかない。
解説
この章句が説くこと
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伝習録・答羅整菴少宰書来教に謂う、「若し必ず学は外に資求せず、但だ当に反観・内省を以て務めと為すべしとせば、則ち『正心誠意』の四字も亦た何ぞ尽くさざる有らんや。何ぞ必ずしも入門の際に、便ち困しむるに『格物』一段の工夫を以てせんや」と。誠に然り、誠に然り。若し其の要を語らば、則ち「修身」の二字も亦た足れり。何ぞ必ずしも又た「正心」と言わんや。「正心」の二字も亦た足れり。何ぞ必ずしも又た「誠意」と言わんや。「誠意」の二字も亦た足れり。何ぞ必ずしも又た「致知」と言い、又た「格物」と言わんや。惟だ其の工夫の詳密にして、之を要するに只だ是れ一事なり。此れ「精一」の学と為す所以なり。此れ正に思わざるべからざる者なり。夫れ理に内外無し。性に内外無し。故に学に内外無し。講習・討論も、未だ嘗て内に非ざるなり。反観・内省も、未だ嘗て外を遺れざるなり。夫れ学は必ず外に資求すと謂うは、是れ己が性を以て外有りと為すなり。是れ「義外」なり。智を用うる者なり。反観・内省を之を内に求むと謂うは、是れ己が性を以て内有りと為すなり。是れ我有るなり。自ら私する者なり。是れ皆な性の内外無きを知らざるなり。故に曰く、「義を精しくして神に入るは、以て用を致すなり。用を利し身を安んずるは、以て徳を崇くするなり」と。「性の徳なり。内外を合するの道なり」と。此れ以て「格物」の学を知るべし。「格物」なる者は、『大学』の実に手を下す処なり。首を徹し尾を徹し、初学より聖人に至るまで、只だ此の工夫のみ。但だ入門の際に此の一段有るのみに非ざるなり。夫れ「正心」「誠意」「致知」「格物」は、皆な「修身」する所以なり。而して「格物」なる者は、其の力を用うる、日に見るべきの地なり。故に「格物」なる者は、其の心の物を格し、其の意の物を格し、其の知の物を格すなり。「正心」なる者は、其の物の心を正すなり。「誠意」なる者は、其の物の意を誠にするなり。「致知」なる者は、其の物の知を致すなり。此れ豈に内外・彼此の分有らんや。理は一なるのみ。其の理の凝聚を以て言えば則ち之を「性」と謂う。其の凝聚の主宰を以て言えば則ち之を「心」と謂う。其の主宰の発動を以て言えば則ち之を「意」と謂う。其の発動の明覚を以て言えば則ち之を「知」と謂う。其の明覚の感応を以て言えば則ち之を「物」と謂う。故に物に就きて言えば、之を「格」と謂う。知に就きて言えば、之を「致」と謂う。意に就きて言えば、之を「誠」と謂う。心に就きて言えば、之を「正」と謂う。正すとは、此を正すなり。誠にするとは、此を誠にするなり。致すとは、此を致すなり。格すとは、此を格すなり。皆な所謂る理を窮めて以て性を尽くすなり。天下に性外の理無く、性外の物無し。学の明らかならざるは、皆な世の儒者、理を認めて外と為し、物を認めて外と為すに由る。而して「義外」の説は、孟子、蓋し嘗て之を闢(しりぞ)くを知らず、乃ち其の内に襲陥して覚らざるに至る。豈に亦た是に似て明らかにし難き者有るに非ずや。察せざるべからず。
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伝習録・答顧東橋書来書に云う、「人に致知・明徳を教えて、其の物に即して理を窮むるを戒む。誠に昏闇の士をして、深居端坐し、教告を聞かずして、遂に能く知致り徳明らかなるに至らしめんや。縦令(たと)い静にして覚有り、稍(やや)本性を悟るも、則ち亦た定慧無用の見ならん。果たして能く古今を知り、事変に達して、用を天下国家の実に致すや否や。其の曰く、『知は意の体、物は意の用。物を格すは君心の非を格すの格の如し』と。語は超悟なりと雖も、独り得て陳見を踵(つ)がざるも、抑も恐らくは道に於て未だ相い吻合せざらん」と。区区、致知格物を論ずるは、正に理を窮むる所以なり。未だ嘗て人の理を窮むるを戒め、之をして深居端坐して一も事とする所無からしめず。若し物に即して理を窮むるを謂わば、前に云う所の「外を務めて内を遺る」者の如くんば、則ち不可なる所有るのみ。昏闇の士も、果たして能く事に随い物に随いて此の心の天理を精察し、以て其の本然の良知を致さば、則ち愚と雖も必ず明らかに、柔と雖も必ず強く、大本立ちて達道行われ、九経の属も、一以て之を貫きて遺す無からん。尚お何ぞ其の致用の実無きを患えんや。彼の頑空虚静の徒は、正に惟だ事に随い物に随いて此の心の天理を精察し、以て其の本然の良知を致す能わずして、倫理を遺棄し、寂滅虚無を以て常と為す。是を以て之を要するに以て家国天下を治むべからず。孰か聖人の窮理尽性の学にして、亦た是の弊有りと謂わんや。心は、身の主なり。而して心の虚霊明覚は、即ち所謂る本然の良知なり。其の虚霊明覚の良知の感に応じて動く者、之を意と謂う。知有りて而る後に意有り。知無くんば則ち意無し。知は意の体に非ずや。意の用うる所は必ず其の物有り。物は即ち事なり。意、親に事うるに用うるが如きは、既に親に事うるを一物と為す。意、民を治むるに用うれば、即ち民を治むるを一物と為す。意、書を読むに用うれば、即ち書を読むを一物と為す。意、訟を聴くに用うれば、則ち訟を聴くを一物と為す。凡そ意の用うる所、物無き者有る無し。是の意有れば即ち是の物有り。是の意無くんば即ち是の物無し。物は意の用に非ずや。「格」の字の義は、「至」の字を以て訓ずる者有り。「文祖に格る」「有苗、来り格る」の如きは、是れ「至」を以て訓ずる者なり。然れども「文祖に格る」は、必ず純孝誠敬にして、幽明の間、一も其の理を得ざる無くして、而る後に之を「格」と謂う。有苗の頑なるも、実に文徳の誕(おお)いに敷くを以てして而る後に格る。則ち亦た「正」の字の義を兼ねて其の間に在る有り。未だ専ら「至」の字を以て之を尽くすべからざるなり。「其の非心を格す」「大臣は君心の非を格す」の類の如きは、是れ則ち一に皆な「其の不正を正して以て正に帰す」の義なり。而して「至」の字を以て訓と為すべからず。且つ『大学』の「格物」の訓も、又た安くんぞ其れ「正」の字を以て訓と為さずして、必ず「至」の字を以て義と為すを知らんや。
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伝習録・答羅整菴少宰書執事の教うる所以、反覆数百言、皆な以て鄙人の「格物」の説を悉くさざるなり。若し鄙説、一たび明らかならば、則ち此の数百言は皆な以て辨説を待たずして釈然として滞り無かるべし。故に今、敢えて縷縷として、以て瑣屑の瀆を滋さず。然れども鄙説は面もて陳べ口もて析するに非ずんば、断じて亦た未だ紙筆の間に了了たる能わざるなり。
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伝習録・答顧東橋書来書に云う、「学者に語り、乃ち『物に即して理を窮む』の説も亦た是れ物を玩びて志を喪うと謂い、又た其の『繁を厭いて約に就く』『本原を涵養す』の数説を取りて学者に標示し、指して晩年の定論と為すと聞く。此れも亦た恐らくは非ならん」と。朱子の所謂る「格物」と云う者は、「物に即して其の理を窮む」に在り。物に即して理を窮むるは是れ事事物物の上に就きて其の所謂る定理なる者を求むるなり。是れ吾が心を以て理を事事物物の中に求む。心と理とを析(わ)ちて二と為すなり。夫れ理を事事物物に求むる者は、孝の理を其の親に求むるの謂いの如きなり。孝の理を其の親に求むれば、則ち孝の理は其れ果たして吾が心に在らんか。抑(そもそ)も果たして親の身に在らんか。仮に果たして親の身に在らば、則ち親の没するの後、吾が心は遂に孝の理無からんか。孺子の井に入るを見れば、必ず惻隠の理有り。是れ惻隠の理は果たして孺子の身に在らんか。抑も吾が心の良知に在らんか。其れ或いは以て之に井に従うべからざるか。其れ或いは手を以て之を援くべきか。是れ皆な所謂る理なり。是れ果たして孺子の身に在らんか。抑も果たして吾が心の良知より出でんか。是を以て之に例せば、万事万物の理も皆な然らざる莫し。是れ以て心と理とを析ちて二と為すの非なるを知るべし。夫れ心と理とを析ちて二と為すは、此れ告子の義を外にするの説なり。孟子の深く闢(ひら)く所なり。「外を務め内を遺れ、博くして要寡し」とは、吾子既に已に之を知れり。是れ果たして何の謂いにして然るか。之を物を玩びて志を喪うと謂うも、尚お猶お以て不可と為さんか。鄙人の所謂る「致知・格物」の若き者は、吾が心の良知を事事物物に致すなり。吾が心の良知は、即ち所謂る「天理」なり。吾が心の良知の「天理」を事事物物に致さば、則ち事事物物は皆な其の理を得ん。吾が心の良知を致す者は、致知なり。事事物物、皆な其の理を得る者は、格物なり。是れ心と理とを合して一と為す者なり。心と理とを合して一と為さば、則ち凡そ区区の前に云う所と、朱子の晩年の論とは、皆な以て言わずして喩すべし。
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伝習録・答周道通書来書に云う、「致知の説は、春間、再び誨益を承け、已に頗る力を用うるを知る。旧に比して尤も簡易と為すを覚え得たり。但だ鄙心は則ち謂う、初学と之を言わば、還お須らく『格物』の意思を帯び、之をして手を下す処を知らしむべし。本来『致知』『格物』は一併に下る。但だ初学に在りては未だ手を下し功を用うるを知らず、還お与に『格物』を説きて、方に『致知』を暁り得ん」と云云。「格物」は是れ「致知」の功夫なり。「致知」を知り得れば便ち已に「格物」を知り得たり。若し是れ未だ「格物」を知らずんば、則ち是れ「致知」の工夫も亦た未だ嘗て知らざるなり。近ごろ一書の友人と此を論ずるもの頗る悉(つく)せる有り。今、一通を往かす。細かに之を観ば、当に自ら見るべし。
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伝習録・陳九川録「文公の『格物』の説は、只だ是れ頭脳を少(か)く。所謂る『之を念慮の微に察す』の如きは、此の一句、『之を文字の中に求め、之を事為の著に験し、之を講論の際に索む』と混じて一例に作して看るべからず。是れ軽重無きなり」と。
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