伝習録 / 答陸原静書 又
來書云:「夫子昨以良知為照心。竊謂良知,心之本體也,照心,人所用功,乃戒慎恐催之心也,猶思也,而遂以戒慎恐催為良知,何歟?」能戒慎恐懼者,是良知也。
新字:来書云:「夫子昨以良知為照心。窃謂良知,心之本体也,照心,人所用功,乃戒慎恐催之心也,猶思也,而遂以戒慎恐催為良知,何歟?」能戒慎恐懼者,是良知也。
書き下し
来書に云う、「夫子、昨に良知を以て照心と為す。竊かに謂う、良知は心の本体なり。照心は人の功を用うる所、乃ち戒慎恐懼の心なり。猶お思うがごときなり。而して遂に戒慎恐懼を以て良知と為すは、何ぞや」と。能く戒慎恐懼する者は、是れ良知なり。
現代語訳
お手紙にこうあった。「先生は昨日、良知を照らす心とされました。良知は心の本体で、照らす心は人が努力する所、つまり戒め慎み恐れる心です。思うようなものです。それなのに戒め慎み恐れることを良知とされるのは、なぜですか」。よく戒め慎み恐れることができるもの、それが良知だ。
解説
自分の行動や心の状態を深く反省し、慎重に、そして恐れ敬う心で物事に取り組むことができる。この「戒慎恐懼」という姿勢こそが、まさしく「良知」の働きそのものです。良知は、単なる知識や思考ではなく、自らの内面を深く見つめ、常に正しい方向へと導こうとする、生きた心の作用なのです。何か特別な努力によって良知が生まれるのではなく、この慎み深く省みる心そのものが、すでに良知の現れであると理解することが大切です。
この章句が説くこと
能戒慎恐懼者是良知也慎独
関連する章句
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伝習録・答陸原静書来書に云う、「良知にも亦た起こる処有り」と云云。此れ或いは之を聴くこと未だ審らかならず。良知なる者は、心の本体なり。即ち前に所謂る「恒に照らす」者なり。心の本体は、起こる無く起こらざる無し。妄念の発する有りと雖も、而して良知は未だ嘗て在らざるにあらず。但だ人、存するを知らざれば、則ち時有りて或いは放つのみ。昏塞の極と雖も、而して良知は未だ嘗て明らかならざるにあらず。但だ人、察するを知らざれば、則ち時有りて或いは蔽わるるのみ。時有りて或いは放つと雖も、其の体は実に未だ嘗て在らざるにあらず。之を存するのみ。時有りて或いは蔽わると雖も、其の体は実に未だ嘗て明らかならざるにあらず。之を察するのみ。若し真知にも亦た起こる処有りと謂わば、則ち是れ時有りて在らざるなり。其の本体の謂いに非ず。
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伝習録・答陸原静書 又来書に云う、「嘗て心に試みるに、喜・怒・憂・懼の感じ発するや、気を動かすの極と雖も、吾が心の良知、一たび覚れば、即ち罔然として消阻し、或いは初めに遏(とど)め、或いは中に制し、或いは後に悔ゆ。然らば則ち良知は常に優閒無事の地に居りて之が主と為り、喜・怒・憂・懼に於て与らざる者の若きは、何ぞや」と。此を知らば、則ち未発の中、寂然不動の体を知りて、発して節に中たるの和、感じて遂に通ずるの妙有らん。然れども「良知は常に優閒無事の地に居るが若し」と謂うは、語に尚お病有り。蓋し良知は喜・怒・憂・懼に滞らずと雖も、而して喜・怒・憂・懼も亦た良知に外ならざるなり。
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伝習録・答陸原静書 又来書に云う、「良知は心の本体、即ち所謂る性善なり、未発の中なり、寂然不動の体なり、廓然大公なり。何ぞ常人は皆な能わずして、必ず学を待つや。中なり、寂なり、公なり、既に以て心の体に属せば、則ち良知は是なり。今、之を心に験するに、知は良ならざる無し。而して中・寂・大公は、実に未だ有らざるなり。豈に良知は復た体・用の外に超然たらんや」と。性は不善無し。故に知は良ならざる無し。良知は即ち是れ未発の中、即ち是れ廓然大公・寂然不動の本体にして、人人の同じく具うる所の者なり。但だ物欲に昏蔽せられざる能わず。故に須らく学びて以て其の昏蔽を去るべし。然れども良知の本体に於ては、初めより毫末に加損する有る能わざるなり。知は良ならざる無くして、中・寂・大公の未だ全き能わざる者は、是れ昏蔽の未だ尽くは去らずして、之を存すること未だ純ならざるのみ。体は既に良知の体、用は即ち良知の用なり。寧ぞ復た「体・用の外に超然たる」者有らんや。
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伝習録・答欧陽崇一来書に云う、「師云う、『「繋辞」に「何をか思い何をか慮らん」と言うは、是れ思う所、慮る所は只だ是れ天理にして、更に別の思い、別の慮り無きを言うのみ。思い無く慮り無きを謂うに非ず。心の本体は即ち是れ天理なり。何の思慮すべき有らんや。学者の功を用うるは、千思万慮すと雖も、只だ是れ他の本体に復せんことを要するのみ。私意を以て去きて安排思索し出だすに非ず。若し安排思索せば、便ち是れ自ら私して智を用うるなり』と。学者の蔽は、大率、空に沈み寂を守るに非ずんば、則ち安排思索なり。徳は辛壬の歳、前の一病を著(つ)け、近ごろ又た後の一病を著く。但だ思索も亦た是れ良知の発用ならば、其の私意もて安排する者と何の取りて別つ所ぞ。恐らくは賊を認めて子と作し、惑いて知らざらん」と。「思うは睿と曰う。睿は聖を作す」。「心の官は則ち思う。思えば則ち之を得」。思うは其れ少なかるべけんや。空に沈み寂を守ると安排思索とは、正に是れ自ら私して智を用う。其の良知を喪失すと為すは一なり。良知は是れ天理の昭明霊覚の処なり。故に良知は即ち是れ天理なり。思うは是れ良知の発用なり。若し是れ良知の発用の思ならば、則ち思う所は天理に非ざる莫し。良知の発用の思は、自然に明白簡易なり。良知も亦た自ら能く知り得たり。若し是れ私意もて安排するの思ならば、自ら是れ紛紜労擾たり。良知も亦た自ら分別し得るを会(よ)くす。蓋し思の是非邪正は、良知の自ら知らざる者有る無し。所以に賊を認めて子と作すは、正に致知の学の明らかならずして、良知の上に之を体認するを知らざるが為のみ。
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伝習録・黄省曾録問う、「孔子の所謂る遠慮、周公の夜を以て日に継ぐは、将迎と同じからざること何如」と。先生曰く、「遠慮は是れ茫茫蕩蕩として去きて思慮するにあらず。只だ是れ這の天理を存せんことを要す。天理は人心に在り、亘古亘今、終始有る無し。天理は即ち是れ良知なり。千思万慮、只だ是れ良知を致さんことを要す。良知は愈々思えば愈々精明なり。若し精思せずんば、漫然として事に随いて応じ去らば、真知は便ち粗し。若し只だ事上に著きて茫茫蕩蕩と去きて思うを、教えて遠慮と做さば、便ち毀誉得喪の免れざる有りて、人欲、其の中に攙入せん。就ち是れ将迎なり。周公の終夜、以て思うは、只だ是れ『睹ざるに戒慎し、聞かざるに恐懼す』の功夫なり。見得る時、其の気象は将迎と自ら別なり」と。
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伝習録・徐愛録又た曰く、「知は是れ心の本体なり。心は自然に会(よ)く知る。父を見れば、自然に孝を知る。兄を見れば、自然に弟を知る。孺子の井に入るを見れば、自然に惻隠を知る。此れ便ち是れ『良知』なり。外に求むるを仮らず。若し『良知』の発、更に私意の障礙無くんば、即ち所謂る『其の惻隠の心を充たさば、仁は勝げて用うべからず』なり。然れども常人に在りては、私意の障礙無き能わず。所以に須らく『致知』『格物』の功を用うべし。私に勝ち理に復すれば、即ち心の『良知』は更に障礙無く、充塞流行するを得。便ち是れ其の知を致すなり。知致らば、則ち意誠なり」と。
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