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伝習録 / 答陸原静書 又

來書云:「良知,心之本體,即所謂性善也,未發之中也,寂然不動之體也,廓然大公也,何常人皆不能而必待於學耶?中也,寂也,公也,既以屬心之體,則良知是矣。今驗之於心,知無不良;而中、寂、大公,實未有也。豈良知復超然於體、用之外乎?」性無不善,故知無不良;良知即是未發之中,即是廓然大公、寂然不動之本體,人人之所同具者也。但不能不昏蔽於物欲,故須學以去其昏蔽;然於良知之本體,初不能有加損於毫末也。知無不良,而中、寂、大公,未能全者,是昏蔽之未盡去,而存之未純耳。體既良知之體,用即良知之用,寧復有「超然於體、用之外」者乎?

新字:来書云:「良知,心之本体,即所謂性善也,未発之中也,寂然不動之体也,廓然大公也,何常人皆不能而必待於學耶?中也,寂也,公也,既以属心之体,則良知是矣。今験之於心,知無不良;而中、寂、大公,実未有也。豈良知復超然於体、用之外乎?」性無不善,故知無不良;良知即是未発之中,即是廓然大公、寂然不動之本体,人人之所同具者也。但不能不昏蔽於物欲,故須學以去其昏蔽;然於良知之本体,初不能有加損於毫末也。知無不良,而中、寂、大公,未能全者,是昏蔽之未尽去,而存之未純耳。体既良知之体,用即良知之用,寧復有「超然於体、用之外」者乎?

書き下し

来書に云う、「良知は心の本体、即ち所謂る性善なり、未発の中なり、寂然不動の体なり、廓然大公なり。何ぞ常人は皆な能わずして、必ず学を待つや。中なり、寂なり、公なり、既に以て心の体に属せば、則ち良知は是なり。今、之を心に験するに、知は良ならざる無し。而して中・寂・大公は、実に未だ有らざるなり。豈に良知は復た体・用の外に超然たらんや」と。性は不善無し。故に知は良ならざる無し。良知は即ち是れ未発の中、即ち是れ廓然大公・寂然不動の本体にして、人人の同じく具うる所の者なり。但だ物欲に昏蔽せられざる能わず。故に須らく学びて以て其の昏蔽を去るべし。然れども良知の本体に於ては、初めより毫末に加損する有る能わざるなり。知は良ならざる無くして、中・寂・大公の未だ全き能わざる者は、是れ昏蔽の未だ尽くは去らずして、之を存すること未だ純ならざるのみ。体は既に良知の体、用は即ち良知の用なり。寧ぞ復た「体・用の外に超然たる」者有らんや。

現代語訳

お手紙にこうあった。「良知は心の本体、いわゆる性善であり、未発の中であり、寂然不動の体であり、廓然大公です。なぜ常人はみなできず、必ず学を待つのですか。中も寂も公も、心の本体に属するなら、良知そのものでしょう。今、心に照らすと、知は良くないことがない。しかし中・寂・大公は、実際にはありません。良知は体と用の外に超然としているのでしょうか」。性に不善はない。だから知に良くないものはない。良知が未発の中であり、廓然大公・寂然不動の本体であり、誰もが同じく備えているものだ。ただ物欲に曇り蔽われずにいられない。だから学んで曇りを去る。しかし良知の本体には、もともと毛先ほども加えたり減らしたりできない。知に良くないものがないのに、中・寂・大公が全うできないのは、曇りが尽く去らず、保つことがまだ純粋でないだけだ。体は良知の体、用は良知の用だ。どうして体用の外に超然としたものがあろう。

解説

「もともと毛先ほども加えたり減らしたりできない」。学ぶことは、良知に何かを足すことではありません。曇りを取ることです。増やす発想と、取り除く発想。方向がまるで逆なのです。

この章句が説くこと

然於良知之本体初不能有加損於毫末也

この一句を、あなたの毎日に。

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