伝習録 / 答陸原静書
來書云:「前日精一之論,即作聖之功否?」「精一」之「精」以理言,「精神」之「精」以氣言。理者,氣之條理;氣者,理之運用。無條理則不能運用,無運用則亦無以見其所謂條理者矣。精則精,精則明,精則一,精則神,精則誠;一則精,一則明,一則神,一則誠,原非有二事也。但後世儒者之說與養生之說各滯於一偏,是以不相為用。前日「精一」之論,雖為原靜愛養精神而發,然而作聖之功,實亦不外是矣。
新字:来書云:「前日精一之論,即作聖之功否?」「精一」之「精」以理言,「精神」之「精」以気言。理者,気之条理;気者,理之運用。無条理則不能運用,無運用則亦無以見其所謂条理者矣。精則精,精則明,精則一,精則神,精則誠;一則精,一則明,一則神,一則誠,原非有二事也。但後世儒者之説与養生之説各滞於一偏,是以不相為用。前日「精一」之論,雖為原静愛養精神而発,然而作聖之功,実亦不外是矣。
書き下し
来書に云う、「前日の精一の論は、即ち聖を作すの功なりや否や」と。「精一」の「精」は理を以て言う。「精神」の「精」は気を以て言う。理なる者は、気の条理なり。気なる者は、理の運用なり。条理無くんば則ち運用する能わず。運用無くんば則ち亦た以て其の所謂る条理なる者を見る無し。精なれば則ち精、精なれば則ち明、精なれば則ち一、精なれば則ち神、精なれば則ち誠なり。一なれば則ち精、一なれば則ち明、一なれば則ち神、一なれば則ち誠なり。原と二事有るに非ざるなり。但だ後世の儒者の説と養生の説と、各々一偏に滞る。是を以て相い用を為さず。前日の「精一」の論は、原静の精神を愛養するが為に発すと雖も、然り而して聖を作すの功も、実に亦た是に外ならざるなり。
現代語訳
お手紙にこうあった。「先日の精一の論は、聖人となる功でしょうか」。「精一」の「精」は理から言い、「精神」の「精」は気から言う。理とは気の筋道であり、気とは理の運用だ。筋道がなければ運用できず、運用がなければ筋道も見えない。精であれば精、精であれば明、精であれば一、精であれば神、精であれば誠だ。一であれば精、一であれば明、一であれば神、一であれば誠だ。もともと二つの事ではない。ただ後世の儒者の説と養生の説が、それぞれ一方に偏っている。だから互いに用をなさない。先日の「精一」の論は、原静が精神を養うために出したものだが、聖人となる功も、実はこれに外ならない。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
伝習録・答陸原静書来書に云う、「元神・元気・元精は必ず各々寄蔵発生の処有り。又た真陰の精、真陽の気有り」と云云。夫れ良知は、一なり。其の妙用を以て言えば、之を神と謂う。其の流行を以て言えば、之を気と謂う。其の凝聚を以て言えば、之を精と謂う。安くんぞ形象方所を以て求むべけんや。真陰の精は、即ち真陽の気の母なり。真陽の気は、即ち真陰の精の父なり。陰は陽に根ざし、陽は陰に根ざす。亦た二有るに非ざるなり。苟も吾が良知の説、明らかならば、即ち凡そ此くの若きの類は、皆な以て言わずして喩すべし。然らずんば、則ち来書に云う所の「三関」「七返」「九還」の属の如き、尚お無窮の疑うべき者有らん。
-
伝習録・陸澄録仙家の元気・元神・元精を問う。先生曰く、「只だ是れ一件なり。流行すれば気と為り、凝聚すれば精と為り、妙用すれば神と為る」と。
-
『慎思録』巻之四理と気とは一にして二、二にして一なり。同じくして異なりと謂ふべし。故に善く理を観る者は、陰陽に就きて之を言ひて、其の理を失はず。理を以て主と為すに由るなり。気は是れ理の運用、理は是れ気の本主なり。易に曰く、一陰一陽、之を道と謂ふ、と。又曰く、天の道を立つ、曰く陰と陽と、と。是れ気に就きて道を見るなり。道と陰陽とは決して是れ二物に非ざることを見るべし。混同して間無きなり。其の混同して間無きの中に、至理有りて之を主宰す。如し或いは陰陽を離れて道を言ひ、或いは陰陽を主として道を言ふ者は、道を知る者に非ざるなり。陰陽を離れて道を言ふ者は、風を係ぎ影を捕ふるが如し。此れ異学空虚の説なり。其の言は妄誕為り。陰陽を主として道を言ふ者は、糟粕を甘しとして醍醐を舎つるが如し。是れ方技術数の説なり。其の言は鄙陋為り。皆此れ道の至理にして陰陽の主為ることを知らざるなり。苟も此の意を理会せば、則ち陰陽を合して道と為すも、固より可なり。陰陽を以て器と為すも、亦た可なり。故に明道曰く、器も亦た道、道も亦た器、と。苟も陰陽を離れて道と為さば則ち不可なり。蓋し理無きの気無く、気無きの理無きに由るなり。
-
伝習録・陸澄録問う、「『之を析(わか)ちて以て其の精を極めて乱れざる有り、然る後に之を合して以て其の大を尽くして余す無き有り』。此の言は如何」と。先生曰く、「恐らくは亦た未だ尽くさず。此の理、豈に分析を容れんや。又た何ぞ須らく湊合し得べけんや。聖人は『精一』と説く。自ずから是れ尽くせり」と。
-
『慎思録』巻之四万物は皆一理の内に生ず。故に一理の内に、陰陽五行四時人物具はる。天下豈に理外の気、理外の物、理外の事有らんや。譬へば四体百骸具はりて人と為すべきが如し。苟も其の一体を闕かば、則ち全人と為すべからず。説命に謂ふ、股肱惟れ人、と。苟も股肱無くんば、何ぞ以て人と為すべけんや。理の陰陽二気を統ぶるも、亦た此の如し。必ず気を兼ねて之が理と為すべし。苟も気無ければ、則ち以て理と為すべからず。此の気は理の統べ有する所なり。故に理を言へば、則ち気も亦た其の中に在り。陰陽を言へば、則ち理も亦た其の中に在り。理と気とは、離合を以て之を言ふべからず、先後を以て之を言ふべからず。宋儒之を析ちて二と為す者は、以有るなり。蓋し天地の間、理を以て主と為して気無ければ、則ち輔翼と為すこと能はず。故に理は譬へば君の如く、気は譬へば臣の如し。分かたずして之を言へば、則ち理の主為ることは明らかならず。故に已むを得ずして此の説有るのみ。其の実は析ちて二と為すべからず。後人は先儒の微意を知らず、妄りに分析して二物と為すのみ。
-
『洗心洞箚記』卷上・第百四十條吾が心の理は、宣王牽牛の章に尽く。吾が体の気は、公孫丑養気の章に審らかなり。養気を知りて理を明らかにせずんば、則ち勇に庶くして、道を体すること誠に難し。理を明らかにするを知りて気を養はずんば、則ち怯に庶くして、道を践むこと実に艱し。故に聖学の極は、理気をして合一せしむるに在るなり。理気をして合一せしむるは、致知格物に在り。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る