伝習録 / 答陸原静書
來書云,「良知亦有起處」云云。此或聽之末審。良知者,心之本體,即前所謂「恆照」者也。心之本體,無起無不起。雖妄念之發,而良知未嘗不在,但人不知存,則有時而或放耳。雖昏塞之極,而良知未嘗不明,但人不知察,則有時而或蔽耳。雖有時而或放,其體實未嘗不在也,存之而已耳;雖有時而或蔽,其體實未嘗不明也,察之而已耳。若謂真知亦有起處,則是有時而不在也,非其本體之謂矣。
新字:来書云,「良知亦有起処」云云。此或聴之末審。良知者,心之本体,即前所謂「恒照」者也。心之本体,無起無不起。雖妄念之発,而良知未嘗不在,但人不知存,則有時而或放耳。雖昏塞之極,而良知未嘗不明,但人不知察,則有時而或蔽耳。雖有時而或放,其体実未嘗不在也,存之而已耳;雖有時而或蔽,其体実未嘗不明也,察之而已耳。若謂真知亦有起処,則是有時而不在也,非其本体之謂矣。
書き下し
来書に云う、「良知にも亦た起こる処有り」と云云。此れ或いは之を聴くこと未だ審らかならず。良知なる者は、心の本体なり。即ち前に所謂る「恒に照らす」者なり。心の本体は、起こる無く起こらざる無し。妄念の発する有りと雖も、而して良知は未だ嘗て在らざるにあらず。但だ人、存するを知らざれば、則ち時有りて或いは放つのみ。昏塞の極と雖も、而して良知は未だ嘗て明らかならざるにあらず。但だ人、察するを知らざれば、則ち時有りて或いは蔽わるるのみ。時有りて或いは放つと雖も、其の体は実に未だ嘗て在らざるにあらず。之を存するのみ。時有りて或いは蔽わると雖も、其の体は実に未だ嘗て明らかならざるにあらず。之を察するのみ。若し真知にも亦た起こる処有りと謂わば、則ち是れ時有りて在らざるなり。其の本体の謂いに非ず。
現代語訳
お手紙にこうあった。「良知にも起こる場所がある」と。これは聞き違いだろう。良知は心の本体だ。前に言った「常に照らす」ものだ。心の本体は、起こることも起こらないこともない。妄念が発しても、良知がないわけではない。ただ人が保つことを知らないので、時に放してしまうだけだ。極めて暗く塞がっても、良知が明るくないわけではない。ただ人が察することを知らないので、時に蔽われるだけだ。時に放しても、その本体は実になくなっていない。保てばよいだけだ。時に蔽われても、その本体は実に明るくなくなっていない。察すればよいだけだ。もし真の知にも起こる場所があると言えば、時にないことになる。本体とは言えない。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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伝習録・答陸原静書 又来書に云う、「良知は心の本体、即ち所謂る性善なり、未発の中なり、寂然不動の体なり、廓然大公なり。何ぞ常人は皆な能わずして、必ず学を待つや。中なり、寂なり、公なり、既に以て心の体に属せば、則ち良知は是なり。今、之を心に験するに、知は良ならざる無し。而して中・寂・大公は、実に未だ有らざるなり。豈に良知は復た体・用の外に超然たらんや」と。性は不善無し。故に知は良ならざる無し。良知は即ち是れ未発の中、即ち是れ廓然大公・寂然不動の本体にして、人人の同じく具うる所の者なり。但だ物欲に昏蔽せられざる能わず。故に須らく学びて以て其の昏蔽を去るべし。然れども良知の本体に於ては、初めより毫末に加損する有る能わざるなり。知は良ならざる無くして、中・寂・大公の未だ全き能わざる者は、是れ昏蔽の未だ尽くは去らずして、之を存すること未だ純ならざるのみ。体は既に良知の体、用は即ち良知の用なり。寧ぞ復た「体・用の外に超然たる」者有らんや。
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伝習録・答陸原静書 又来書に云う、「夫子、昨に良知を以て照心と為す。竊かに謂う、良知は心の本体なり。照心は人の功を用うる所、乃ち戒慎恐懼の心なり。猶お思うがごときなり。而して遂に戒慎恐懼を以て良知と為すは、何ぞや」と。能く戒慎恐懼する者は、是れ良知なり。
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伝習録・黄省曾録先生曰く、「知る無く知らざる無しとは、本体は原と是くの如し。譬えば日は未だ嘗て心に物を照らす有らずして、自ら物として照らさざる無し。照らす無く照らさざる無きは、原と是れ日の本体なり。良知は本と知る無し。今、却って知る有らんことを要す。本と知らざる無し。今、却って知らざる有るかと疑う。只だ是れ信ずること及ばざるのみ」と。
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伝習録・答陸原静書 又来書に云う、「嘗て心に試みるに、喜・怒・憂・懼の感じ発するや、気を動かすの極と雖も、吾が心の良知、一たび覚れば、即ち罔然として消阻し、或いは初めに遏(とど)め、或いは中に制し、或いは後に悔ゆ。然らば則ち良知は常に優閒無事の地に居りて之が主と為り、喜・怒・憂・懼に於て与らざる者の若きは、何ぞや」と。此を知らば、則ち未発の中、寂然不動の体を知りて、発して節に中たるの和、感じて遂に通ずるの妙有らん。然れども「良知は常に優閒無事の地に居るが若し」と謂うは、語に尚お病有り。蓋し良知は喜・怒・憂・懼に滞らずと雖も、而して喜・怒・憂・懼も亦た良知に外ならざるなり。
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伝習録・答陸原静書 又来書に云う、「先生又た曰く、『照心は動くに非ざるなり』と。豈に其の理に循うを以て之を静と謂うか。『妄心も亦た照らすなり』と。豈に其の良知は未だ嘗て其の中に在らざるにあらず、未だ嘗て其の中に明らかならざるにあらずして、視聴言動の則を過ぎざる者は、皆な天理なるを以てか。且つ既に妄心と曰わば、則ち妄心に在りては之を照と謂うべく、而して照心に在りては則ち之を妄と謂わん。妄と息とは何ぞ異ならん。今、妄の照を仮りて以て至誠の息む無きに続くは、竊かに未だ明らかならざる所なり。幸いに再び蒙を啓け」と。「照心は動くに非ず」とは、其の本体明覚の自然に発して、未だ嘗て動く所有らざるを以てなり。動く所有れば即ち妄なり。「妄心も亦た照らす」とは、其の本体明覚の自然なる者、未だ嘗て其の中に在らざるにあらざるを以てなり。但だ動く所有るのみ。動く所無くんば即ち照なり。妄無く、照無し。妄を以て照と為し、照を以て妄と為すに非ざるなり。照心を照と為し、妄心を妄と為さば、是れ猶お妄有り、照有るなり。妄有り照有らば、則ち猶お貳なり。貳なれば則ち息む。妄無く照無くんば則ち貳ならず。貳ならざれば則ち息まざるなり。
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伝習録・徐愛録又た曰く、「知は是れ心の本体なり。心は自然に会(よ)く知る。父を見れば、自然に孝を知る。兄を見れば、自然に弟を知る。孺子の井に入るを見れば、自然に惻隠を知る。此れ便ち是れ『良知』なり。外に求むるを仮らず。若し『良知』の発、更に私意の障礙無くんば、即ち所謂る『其の惻隠の心を充たさば、仁は勝げて用うべからず』なり。然れども常人に在りては、私意の障礙無き能わず。所以に須らく『致知』『格物』の功を用うべし。私に勝ち理に復すれば、即ち心の『良知』は更に障礙無く、充塞流行するを得。便ち是れ其の知を致すなり。知致らば、則ち意誠なり」と。
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