伝習録 / 薛侃録
侃問:「先儒以心之靜為體,心之動為用,如何?」先生曰:「心不可以動、靜為體、用。動、靜,時也。即體而言,用在體;即用而言,體在用;是謂體、用一源。若說靜可以見其體,動可以見其用,卻不妨。」
新字:侃問:「先儒以心之静為体,心之動為用,如何?」先生曰:「心不可以動、静為体、用。動、静,時也。即体而言,用在体;即用而言,体在用;是謂体、用一源。若説静可以見其体,動可以見其用,却不妨。」
書き下し
侃問う、「先儒は心の静を以て体と為し、心の動を以て用と為す。如何」と。先生曰く、「心は動・静を以て体・用と為すべからず。動・静は、時なり。体に即して言えば、用は体に在り。用に即して言えば、体は用に在り。是れを体・用一源と謂う。若し静は以て其の体を見るべく、動は以て其の用を見るべしと説かば、却って妨げず」と。
現代語訳
薛侃が尋ねた。「先の儒者は、心の静を体とし、心の動を用としました。どうでしょう」。先生は言った。「心は、動と静を体と用としてはならない。動と静は時のことだ。体から言えば、用は体の中にある。用から言えば、体は用の中にある。これを体用一源という。もし静において体が見え、動において用が見えると言うなら、それは差し支えない」。
解説
私たちは、心が「動いている時」と「静かな時」を、別々の状態として捉えがちです。しかし、この一節は、動と静は「時」の違いにすぎず、心の本質は一つであると説きます。まるで水が、波立つ時も静かな時も、本質は水であるのと同じです。目の前の状況によって心の現れ方は変わっても、その根源にあるものは常に同じ。表面的な違いにとらわれず、心の奥底にある普遍的な本質を見つめることの大切さを教えてくれます。
この章句が説くこと
心不可以動静為体用体用一源無心
関連する章句
-
伝習録・陳九川録問う、「儒者、三更の時分に到り、胸中の思慮を掃蕩し、空空静静たるは、釈氏の静と只だ一般なり。両下、皆な用いず。此の時、何の分別する所ぞ」と。先生曰く、「動・静は只だ是れ一個なり。那の三更の時分の空空静静なるは、只だ是れ天理を存す。即ち是れ如今、事に応じ物に接するの心なり。如今、事に応じ物に接するの心も、亦た是れ此の天理に循う。便ち是れ那の三更の時分の空空静静の心なり。故に動・静は只だ是れ一個なり。分別し得ず。動・静の合一するを知り得ば、釈氏の毫釐の差う処も亦た自ら揜(おお)う莫からん」と。
-
伝習録・答陸原静書 又来書に云う、「周子は『静を主とす』と曰い、程子は『動も亦た定、静も亦た定』と曰い、先生は『定なる者は心の本体』と曰う。是の静定は、決して睹(み)ず聞かず、思い無く為す無きの謂いに非ず。必ず常に知り常に存し、常に理を主とするの謂いなり。夫れ常に知り常に存し、常に理を主とするは、明らかに是れ動なり、已発なり。何を以て之を静と謂うか。何を以て之を本体と謂うか。豈に是の静定は、又た以て心の動静を貫く者有らんや」と。理は動く者無きなり。常に知り常に存し、常に理を主とするは、即ち睹ず聞かず、思い無く為す無きの謂いなり。睹ず聞かず、思い無く為す無きは、槁木死灰の謂いに非ざるなり。睹聞思為、理に一にして、未だ嘗て睹聞思為する所有らず。即ち是れ動きて未だ嘗て動かざるなり。所謂る「動も亦た定、静も亦た定」「体用は一原」なる者なり。
-
伝習録・答陸原静書 又来書に云う、「此の心の未発の体は、其れ已発の前に在るか。其れ已発の中に在りて之が主と為るか。其れ前後・内外無くして渾然たるの体なる者か。今、心の動・静を謂う者は、其れ事有ると事無きとを主として言うか。其れ寂然・感通を主として言うか。其れ理に循うと欲に従うとを主として言うか。若し理に循うを静と為し、欲に従うを動と為さば、則ち所謂る『動中に静有り、静中に動有り、動極まりて静、静極まりて動』なる者に於て、通ずべからず。若し事有りて感通するを動と為し、事無くして寂然たるを静と為さば、則ち所謂る『動きて動く無く、静にして静なる無し』なる者に於て、通ずべからず。若し未発は已発の先に在り、静にして動を生ずと謂わば、是れ至誠に息(や)む有るなり、聖人に復する有るなり。又た可ならず。若し未発は已発の中に在りと謂わば、則ち未発・已発は倶に当に静を主とすべきか。抑も未発を静と為し已発を動と為すか。抑も未発・已発は倶に動無く静無きか。倶に動有り静有るか。幸いに教えよ」と。未発の中は、即ち良知なり。前後内外無くして、渾然一体なる者なり。事有ると事無きとは以て動・静を言うべし。而して良知は事有ると事無きとに分かつ無きなり。寂然・感通は以て動・静を言うべし。而して良知は寂然・感通に分かつ無きなり。動・静なる者は、遇う所の時なり。心の本体は、固より動・静に分かつ無きなり。理は動く者無きなり。動けば即ち欲と為る。理に循えば則ち万変に酬酢すと雖も未だ嘗て動かざるなり。欲に従えば則ち心を槁らして一念なりと雖も未だ嘗て静ならざるなり。「動中に静有り、静中に動有り」、又た何ぞ疑わんや。事有りて感通するは、固より以て動と言うべし。然れども寂然たる者は未だ嘗て増す有らざるなり。事無くして寂然たるは、固より以て静と言うべし。然れども感通する者は未だ嘗て減ずる有らざるなり。「動きて動く無く、静にして静なる無し」、又た何ぞ疑わんや。前後内外無くして渾然一体ならば、則ち至誠に息む有るの疑いは、解を待たざるなり。未発は已発の中に在りて、已発の中に未だ嘗て別に未発なる者の在る有らず。已発は未発の中に在りて、未発の中に未だ嘗て別に已発なる者の存する有らず。是れ未だ嘗て動・静無きにあらずして、動・静を以て分かつべからざる者なり。凡そ古人の言語を観るは、意を以て志を逆えて其の大旨を得るに在り。若し必ず文義に拘滞せば、則ち「孑遺有る靡(な)し」なる者は、是れ周に果たして遺民無きなり。周子の「静極まりて動く」の説も、苟も善く観ずんば、亦た病有るを免れず。蓋し其の意は「太極、動きて陽を生じ、静にして陰を生ず」より説き来たる。太極の生生の理は、妙用息まずして、常体は易わらず。太極の生生は、即ち陰陽の生生なり。其の生生の中に就きて、其の妙用息まざる者を指して之を動と謂い、之を陽の生と謂う。動きて徒らに陽を生ずと謂うに非ざるなり。其の生生の中に就きて、其の常体の易わらざる者を指して之を静と謂い、之を陰の生と謂う。静にして而る後に陰を生ずと謂うに非ざるなり。若し果たして静にして而る後に陰を生じ、動きて而る後に陽を生ぜば、則ち是れ陰陽・動静は、截然として各々自ら一物と為るなり。陰陽は一気なり。一気、屈伸して陰陽と為る。動静は一理なり。一理、隠顕して動・静と為る。春夏は以て陽と為し動と為すべし。而して未だ嘗て陰と静と無きにあらず。秋冬は以て陰と為し静と為すべし。而して未だ嘗て陽と動と無きにあらず。春夏、此れ息まず、秋冬、此れ息まず、皆な之を陽と謂い、動と謂うべし。春夏、此れ常体、秋冬、此れ常体、皆な之を陰と謂い、静と謂うべし。元・会・運・世・歳・月・日・時より、以て刻・杪・忽・微に至るまで、皆な然らざる莫し。所謂る動静に端無く、陰陽に始め無しとは、道を知る者の黙して之を識るに在り。言語を以て窮むべきに非ざるなり。若し只だ文に牽かれ句に泥み、比擬仿像せば、則ち所謂る心は『法華』に転ぜられ、是れ『法華』を転ずるに非ざるなり。
-
伝習録・陸澄録「定なる者は、心の本体、天理なり。動静は、遇う所の時なり」。
-
伝習録・答陸原静書来書に云う、「手を下すの工夫、此の心の寧静なる時無きを覚ゆ。妄心は固より動くなり。照心も亦た動くなり。心、既に恒に動かば、則ち刻として暫くも停まる無きなり」と。是れ寧静を求むるに意有り。是を以て愈々寧静ならざるのみ。夫れ妄心は則ち動くなり。照心は動くに非ざるなり。恒に照らせば則ち恒に動き恒に静なり。天地の恒久にして已(や)まざる所以なり。照心は固より照らすなり。妄心も亦た照らすなり。其の物為るや貳(ふた)つならざれば、則ち其の物を生ずること息(や)まず。刻として暫くも停まる有らば則ち息むなり。至誠にして息む無きの学に非ざるなり。
-
伝習録・陳九川録九川問う、「近年、泛濫の学を厭うに因り、毎に静坐して、念慮を屏息せんことを求めんと要す。惟だ能わざるのみならず、愈々擾擾たるを覚ゆ。如何」と。先生曰く、「念、如何ぞ息(や)むべけんや。只だ是れ正しからんことを要す」と。曰く、「当に自ら念無き時有るべきか否か」と。先生曰く、「実に念無き時無し」と。曰く、「此くの如くんば却って如何ぞ静を言わん」と。曰く、「静は未だ嘗て動かざるにあらず。動は未だ嘗て静ならざるにあらず。戒謹恐懼は即ち是れ念なり。何ぞ動静を分かたん」と。曰く、「周子は何を以て『之を定むるに中正仁義を以てして静を主とす』と言うか」と。曰く、「欲無し、故に静なり。是れ『静も亦た定、動も亦た定』の定の字なり。其の本体を主とするなり。戒懼の念は、是れ活潑潑地なり。此れ是れ天機の息まざる処なり。所謂る『維(こ)れ天の命、於(ああ)穆として已まず』なり。一たび息まば便ち是れ死なり。本体の念に非ずんば、則ち是れ私念なり」と。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る