伝習録 / 薛侃録
侃去花間草,因曰:「天地間何善難培、惡難去?」先生曰:「未培未去耳。」少間,曰:「此等看善惡,皆從軀殼起念,便會錯。」侃未達。曰:「天地生意,花草一般,何曾有善惡之分?子欲觀花,則以花為善,以草為惡;如欲用草時,復以草為善矣。此等善惡,皆由汝心好惡所生,故知是錯。」曰:「然則無善無惡乎?」曰:「無善無惡者,理之靜;有善有惡者,氣之動。不動於氣,即無善無惡,是謂至善。」曰:「佛氏亦無善無惡,何以異?」曰:「佛氏著在無善無惡上,便一切都不管,不可以治天下。聖人無善無惡,只是『無有作好』、『無有作惡』,不動於氣。然『遵王之道』,『會其有極』,便自『一循天理』,便有個『裁成輔相』。」曰:「草既非惡,即草不宜去矣。」曰:「如此卻是佛、老意見。草若是礙,何妨汝去?」曰:「如此又是作好、作惡。」曰:「不作好惡,非是全無好惡,卻是無知覺的人。謂之不作者,只是好惡一循於理,不去又著一分意思。如此,即是不曾好惡一般。」曰:「去草如何是一循於埋,不著意思?」曰:「草有妨礙,理亦宜去,去之而已。偶未即去,亦不累心。若著了一分意思,即心體便有貽累,便有許多動氣處。」曰:「然則善惡全不在物?」曰:「只在汝心,循理便是善,動氣便是惡。」曰:「畢竟物無善惡。」曰:「在心如此,在物亦然。世儒惟不知此,舍心逐物,將『格物』之學錯看了,終日馳求於外,只做得個『義襲而取』,終身行不著、習不察。」曰:「『如好好色,如惡惡臭』,則如何?」曰:「此正是一循於理,是天理合如此,本無私意作好作惡。」曰:「『如好好色,如惡惡臭』,安得非意?」曰:「卻是誠意,不是私意。誠意只是循天理。雖是循天理,亦著不得一分意。故有所忿懥、好樂,則不得其正,須是廓然大公,方是心之本體。知此,即知『未發之中』。」伯生曰:「先生云:『草有妨礙,理亦宜去。』緣何又是軀殼起念?」曰:「此須汝心自體當。汝要去草,是甚麼心?周茂叔窗前草不除,是甚麼心?」
新字:侃去花間草,因曰:「天地間何善難培、悪難去?」先生曰:「未培未去耳。」少間,曰:「此等看善悪,皆従躯殼起念,便会錯。」侃未達。曰:「天地生意,花草一般,何曽有善悪之分?子欲観花,則以花為善,以草為悪;如欲用草時,復以草為善矣。此等善悪,皆由汝心好悪所生,故知是錯。」曰:「然則無善無悪乎?」曰:「無善無悪者,理之静;有善有悪者,気之動。不動於気,即無善無悪,是謂至善。」曰:「仏氏亦無善無悪,何以異?」曰:「仏氏著在無善無悪上,便一切都不管,不可以治天下。聖人無善無悪,只是『無有作好』、『無有作悪』,不動於気。然『遵王之道』,『会其有極』,便自『一循天理』,便有個『裁成輔相』。」曰:「草既非悪,即草不宜去矣。」曰:「如此却是仏、老意見。草若是礙,何妨汝去?」曰:「如此又是作好、作悪。」曰:「不作好悪,非是全無好悪,却是無知覚的人。謂之不作者,只是好悪一循於理,不去又著一分意思。如此,即是不曽好悪一般。」曰:「去草如何是一循於埋,不著意思?」曰:「草有妨礙,理亦宜去,去之而已。偶未即去,亦不累心。若著了一分意思,即心体便有貽累,便有許多動気処。」曰:「然則善悪全不在物?」曰:「只在汝心,循理便是善,動気便是悪。」曰:「畢竟物無善悪。」曰:「在心如此,在物亦然。世儒惟不知此,舎心逐物,将『格物』之学錯看了,終日馳求於外,只做得個『義襲而取』,終身行不著、習不察。」曰:「『如好好色,如悪悪臭』,則如何?」曰:「此正是一循於理,是天理合如此,本無私意作好作悪。」曰:「『如好好色,如悪悪臭』,安得非意?」曰:「却是誠意,不是私意。誠意只是循天理。雖是循天理,亦著不得一分意。故有所忿懥、好楽,則不得其正,須是廓然大公,方是心之本体。知此,即知『未発之中』。」伯生曰:「先生云:『草有妨礙,理亦宜去。』縁何又是躯殼起念?」曰:「此須汝心自体当。汝要去草,是甚麼心?周茂叔窗前草不除,是甚麼心?」
書き下し
侃、花間の草を去る。因りて曰く、「天地の間、何ぞ善は培い難く、悪は去り難きか」と。先生曰く、「未だ培わず未だ去らざるのみ」と。少間ありて、曰く、「此等の善悪を看るは、皆な軀殻より念を起こす。便ち錯る会(べ)し」と。侃、未だ達せず。曰く、「天地の生意は、花も草も一般なり。何ぞ曾て善悪の分有らんや。子、花を観んと欲せば、則ち花を以て善と為し、草を以て悪と為す。如し草を用いんと欲する時は、復た草を以て善と為さん。此等の善悪は、皆な汝が心の好悪より生ずる所なり。故に是れ錯ると知る」と。曰く、「然らば則ち善無く悪無きか」と。曰く、「善無く悪無き者は、理の静なり。善有り悪有る者は、気の動なり。気に動かざれば、即ち善無く悪無し。是れを至善と謂う」と。曰く、「仏氏も亦た善無く悪無し。何を以て異なる」と。曰く、「仏氏は善無く悪無きの上に著在す。便ち一切都て管せず。以て天下を治むべからず。聖人の善無く悪無きは、只だ是れ『作好する有る無く』『作悪する有る無く』、気に動かざるなり。然れども『王の道に遵い』『其の極有るに会す』れば、便ち自ら『一に天理に循い』、便ち個の『裁成輔相』有り」と。曰く、「草は既に悪に非ずんば、即ち草は去るに宜しからず」と。曰く、「此くの如くんば却って是れ仏・老の意見なり。草若し是れ礙(さまた)げならば、何ぞ汝が去るを妨げん」と。曰く、「此くの如くんば又た是れ好を作し悪を作すなり」と。曰く、「好悪を作さずとは、是れ全く好悪無きに非ず。却って是れ知覚無きの人なり。之を作さずと謂う者は、只だ是れ好悪、一に理に循い、去るに又た一分の意思を著けざるなり。此くの如くんば、即ち是れ曾て好悪せざると一般なり」と。曰く、「草を去るは如何ぞ是れ一に理に循い、意思を著けざるか」と。曰く、「草に妨礙有らば、理も亦た去るに宜し。之を去るのみ。偶々未だ即ちには去らざるも、亦た心を累わさず。若し一分の意思を著け了らば、即ち心体に便ち貽累有り。便ち許多の気を動かす処有り」と。曰く、「然らば則ち善悪は全く物に在らざるか」と。曰く、「只だ汝が心に在り。理に循えば便ち是れ善、気に動けば便ち是れ悪なり」と。曰く、「畢竟、物に善悪無し」と。曰く、「心に在りて此くの如く、物に在りても亦た然り。世儒は惟だ此を知らず。心を舎てて物を逐い、『格物』の学を将(もっ)て錯り看了る。終日、外に馳求し、只だ個の『義襲して取る』を做し得たり。終身、行いて著(あら)われず、習いて察せず」と。曰く、「『好色を好むが如く、悪臭を悪むが如し』とは、則ち如何」と。曰く、「此れ正に是れ一に理に循うなり。是れ天理、合(まさ)に此くの如くなるべし。本と私意の好を作し悪を作す無し」と。曰く、「『好色を好むが如く、悪臭を悪むが如し』とは、安くんぞ意に非ざるを得んや」と。曰く、「却って是れ誠意なり。私意に非ず。誠意は只だ是れ天理に循うなり。是れ天理に循うと雖も、亦た一分の意をも著け得ず。故に忿懥・好楽する所有らば、則ち其の正を得ず。須らく是れ廓然として大公なるべし。方に是れ心の本体なり。此を知らば、即ち『未発の中』を知らん」と。伯生曰く、「先生云う、『草に妨礙有らば、理も亦た去るに宜し』と。縁何ぞ又た是れ軀殻より念を起こすか」と。曰く、「此れ須らく汝が心、自ら体当すべし。汝、草を去らんと要するは、是れ甚麼(なん)の心ぞ。周茂叔の窓前の草を除かざるは、是れ甚麼の心ぞ」と。
現代語訳
薛侃が花壇の草を抜いていた。そこで言った。「天地の間で、なぜ善は育てにくく、悪は除きにくいのでしょう」。先生は言った。「まだ育てていない、まだ除いていないだけだ」。しばらくして言った。「こういう善悪の見方は、みな身体から念を起こしている。だから誤る」。薛侃は分からなかった。先生は言った。「天地の生きる意志は、花も草も同じだ。どこに善悪の別があろう。あなたが花を見たければ、花を善とし草を悪とする。草を使いたければ、草を善とする。こういう善悪は、みなあなたの心の好悪から生じる。だから誤りだと分かる」。「では善も悪もないのですか」。「善も悪もないのは、理が静かなことだ。善があり悪があるのは、気が動くことだ。気に動かされなければ、善も悪もない。これを至善という」。「仏教も善も悪もないと言います。どう違うのですか」。「仏教は善も悪もないことに執着する。だから一切を顧みない。天下を治められない。聖人の善も悪もないというのは、『好みを作らず』『憎しみを作らず』、気に動かされないことだ。しかし『王の道に従い』『その極みに会えば』、自ずと『一に天理に従い』、『裁ち整え助ける』働きがある」。「草が悪でないなら、抜くべきではないのでは」。「それでは仏教や老荘の見方だ。草が邪魔なら、抜いて何が悪い」。「それでは好みや憎しみを作ることになります」。「好悪を作らないとは、まったく好悪がないことではない。それでは知覚のない人だ。作らないとは、好悪が一に理に従い、抜く時に余計な思いを加えないことだ。そうすれば、好悪しなかったのと同じだ」。「草を抜くのに、どうすれば理に従い、思いを加えないことになりますか」。「草が邪魔なら、理としても抜くべきだ。抜くだけだ。たまたますぐ抜けなくても、心を煩わせない。もし一分の思いを加えれば、心の本体に累が生じ、気を動かす所が多く出る」。「では善悪はまったく物にないのですか」。「ただあなたの心にある。理に従えば善、気に動けば悪だ」。「結局、物に善悪はないと」。「心においてそうであり、物においてもそうだ。世の儒者はこれを知らず、心を捨てて物を追い、『格物』の学を読み誤る。一日中外に走り求め、『義を外から襲い取る』ことをするだけだ。生涯、行っても明らかにならず、習っても察しない」。「『好色を好むように、悪臭を憎むように』とは、どうなのですか」。「それこそ一に理に従うことだ。天理としてそうあるべきで、もともと私意で好みや憎しみを作るのではない」。「『好色を好むように、悪臭を憎むように』が、どうして意でないと言えますか」。「それは誠意だ。私意ではない。誠意とは天理に従うことだ。天理に従うといっても、一分の意も加えてはならない。だから怒りや好みがあれば、正しさを得ない。からりとして大いに公であるべきだ。それが心の本体だ。これを知れば『未発の中』が分かる」。伯生が言った。「先生は『草が邪魔なら、理としても抜くべきだ』と言われました。それがなぜ身体から念を起こすことになるのですか」。先生は言った。「これはあなたの心が自ら体得すべきだ。あなたが草を抜こうとするのは、どういう心か。周茂叔が窓前の草を除かなかったのは、どういう心か」。
解説
この章句が説くこと
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伝習録・黄省曾録丁亥年九月、先生、起復して思・田を征す。将に命じて行かんとする時、徳洪、汝中と学を論ず。汝中、先生の教言を挙げて曰く、「善無く悪無きは是れ心の体、善有り悪有るは是れ意の動、善を知り悪を知るは是れ良知、善を為し悪を去るは是れ格物なり」と。徳洪曰く、「此の意、如何」と。汝中曰く、「此れ恐らくは未だ是れ究竟の話頭ならず。若し心体は是れ善無く・悪無しと説かば、意も亦た是れ善無く・悪無きの意、知も亦た是れ善無く・悪無きの知、物も是れ善無く・悪無きの物ならん。若し意に善・悪有りと説かば、畢竟、心体に還た善・悪有りて在らん」と。徳洪曰く、「心体は是れ『天の命ずるの性』なり。原と是れ善無く・悪無き的なり。但だ人に習心有り、意念の上に善悪有りて在るを見る。格・致・誠・正・修は、此れ正に是れ那の性体に復するの功夫なり。若し原と善悪無くんば、功夫も亦た説くを消せざるなり」と。是の夕、天泉橋に侍坐し、各々挙げて正を請う。先生曰く、「我、今、将に行かんとす。正に你們の来たりて此の意を講破するを要す。二君の見は、正に好し、相い資して用と為す。各々一辺に執すべからず。我、這裏に人を接するに、原と此の二種有り。利根の人は、直だ本原の上より悟入す。人心の本体は原と是れ明瑩無滞的なり。原と是れ個の未発の中なり。利根の人は、一たび本体を悟らば即ち是れ功夫なり。人己内外、一斉に倶に透り了る。其の次は習心の在る有るを免れず。本体、蔽を受く。故に且く意念の上に実落に善を為し悪を去るを教う。功夫、熟する後、渣滓、去り得て尽くる時、本体も亦た明らかに尽くさん。汝中の見は、是れ我、這裏に利根の人を接する的なり。徳洪の見は、是れ我、這裏に其の次の為に法を立つる的なり。二君、相い取りて用と為さば、則ち中人の上下、皆な道に引き入るべし。若し各々一辺に執せば、跟前に便ち人を失う有り。便ち道体に於て各々未だ尽くさざる有らん」と。既にして曰く、「已後、朋友と講学するに、切に我が宗旨を失うべからず。善無く悪無きは是れ心の体、善有り悪有るは是れ意の動、善を知り悪を知る的は是れ良知、善を為し悪を去るは是れ格物なり。只だ我が這の話頭に依りて人に随いて指点せば、自ら病痛無し。此れ原と是れ徹上徹下の功夫なり。利根の人は、世にも亦た遇い難し。本体功夫、一悟して尽く透るは、此れ顔子・明道も承当するを敢えてせざる所なり。豈に軽易に人に望むべけんや。人に習心有り。他をして良知の上に実に善を為し悪を去るの功夫を用いしめず、只だ去きて懸空に個の本体を想わば、一切の事為、倶に着実ならず。一個の虚寂を養成するに過ぎず。此個の病痛は小小に非ず。早く説破せざるべからず」と。是の日、徳洪・汝中、倶に省有り。
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伝習録・陳九川録問う、「先生、嘗て善・悪は只だ是れ一物と謂う。善・悪の両端は、冰・炭の相い反するが如し。如何ぞ只だ一物と謂わんや」と。先生曰く、「至善なる者は、心の本体なり。本体の上、才かに過当すること些子あらば、便ち是れ悪なり。是れ一個の善有りて、却って又た一個の悪有りて相い対するに非ざるなり。故に善・悪は只だ是れ一物なり」と。直、先生の説を聞くに因りて、則ち程子の所謂る「善は固より性なり。悪も亦た之を性と謂わざるべからず」を知る。又た曰く、「善・悪は皆な天理なり。之を悪と謂う者は、本と悪に非ず。但だ本性の上に於ける過と不及との間なるのみ」と。其の説、皆な疑うべき無し。
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伝習録・薛侃録侃問う、「専ら涵養して講求を務めずんば、将に欲を認めて理と作さんとす。則ち之を如何せん」と。先生曰く、「人は須らく是れ学を知るべし。講求も亦た只だ是れ涵養なり。講求せざるは只だ是れ涵養の志の切ならざるなり」と。曰く、「何をか学を知ると謂う」と。曰く、「且く道え、何の為にして学ぶか。個の甚(なに)をか学ぶか」と。曰く、「嘗て先生の教えを聞く、学は是れ天理を存するを学ぶなりと。心の本体は即ち是れ天理なり。天理を体認するは、只だ自ら心地に私意無きを要するのみ」と。曰く、「此くの如くんば、則ち只だ須らく私意を克ち去らば便ち是れなり。又た甚の理欲の明らかならざるを愁えん」と。曰く、「正に恐る、這些(これら)の私意、認め真ならざらんことを」と。曰く、「総て是れ志の未だ切ならざるなり。志切ならば、目視・耳聴も皆な此に在り。安くんぞ認め真ならざるの道理有らんや。『是非の心は、人皆な之を有す』。外に求むるを仮らず。講求も亦た只だ是れ自心の見る所を体当するなり。心外に去きて別に個の見有るを成さんや」と。
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伝習録・薛侃録蕭恵問う、「己が私は克ち難し。奈何」と。先生曰く、「汝が己が私を将(もっ)て来たれ。汝に替わりて克たん」と。又た曰く、「人は須らく己が為にするの心有りて、方に能く己に克つべし。能く己に克ちて、方に能く己を成す」と。蕭恵曰く、「恵も亦た頗る己が為にするの心有り。知らず、縁何ぞ己に克つ能わざるか」と。先生曰く、「且く説け、汝が己が為にするの心有りとは是れ如何」と。恵、良久しくして曰く、「恵も亦た一心、好人を做さんと要す。便ち自ら頗る己が為にするの心有りと謂う。今、之を思うに、看来(みるから)に亦た只だ是れ個の軀殻の己を為し得たり。曾て個の真己を為さず」と。先生曰く、「真己は何ぞ嘗て軀殻を離著せんや。恐らくは汝は連(すら)那の軀殻の己をも曾て為さず。且く道え、汝が所謂る軀殻の己とは、豈に是れ耳・目・口・鼻・四肢に非ざらんや」と。恵曰く、「正に是なり。此が為に、目は便ち色を要し、耳は便ち声を要し、口は便ち味を要し、四肢は便ち逸楽を要す。所以に克つ能わず」と。先生曰く、「『美色は人の目をして盲ならしめ、美声は人の耳をして聾ならしめ、美味は人の口をして爽(たが)わしめ、馳騁田猟は人をして発狂せしむ』。這れ都て是れ汝が耳・目・口・鼻・四肢を害する的なり。豈に是れ汝が耳・目・口・鼻・四肢の為なるを得んや。若し耳・目・口・鼻・四肢の為に著(つ)く時は、便ち須らく思量すべし、耳は如何ぞ聴き、目は如何ぞ視、口は如何ぞ言い、四肢は如何ぞ動くかを。必ず須らく礼に非ざれば視・聴・言・動する勿かるべし。方纔(はじ)めて個の耳・目・口・鼻・四肢を成し得たり。這個は才(はじ)めて是れ耳・目・口・鼻・四肢の為に著くなり。汝、今、終日、外に向かいて馳求し、名の為、利の為なるは、這れ都て是れ軀殻の外面の物事の為に著くなり。汝、若し耳・目・口・鼻・四肢の為に著き、礼に非ざれば視・聴・言・動する勿からんと要する時、豈に是れ汝が耳・目・口・鼻・四肢の自ら能く視・聴・言・動する勿からんや。須らく汝が心に由るべし。這の視・聴・言・動は皆な是れ汝が心なり。汝が心の視は、竅を目に発す。汝が心の聴は、竅を耳に発す。汝が心の言は、竅を口に発す。汝が心の動は、竅を四肢に発す。若し汝が心無くんば、便ち耳・目・口・鼻無し。所謂る汝が心も、亦た専ら是れ那の一団の血肉のみに非ず。若し是れ那の一団の血肉ならば、如今、已に死せる人も、那の一団の血肉は還(な)お在り。縁何ぞ視・聴・言・動する能わざるや。所謂る汝が心は、却って是れ那の能く視・聴・言・動する的なり。這個は便ち是れ性なり。便ち是れ天理なり。這個の性有りて、才めて能く生ず。這の性の生理は、便ち之を仁と謂う。這の性の生理は、目に発すれば、便ち視るを会(よ)くす。耳に発すれば、便ち聴くを会くす。口に発すれば、便ち言うを会くす。四肢に発すれば、便ち動くを会くす。都て只だ是れ那の天理の発生なり。其の一身を主宰するを以て、故に之を心と謂う。這の心の本体は、原と只だ是れ個の天理なり。原と非礼無し。這個は便ち是れ汝が真己なり。這個の真己は軀殻の主宰なり。若し真己無くんば、便ち軀殻無し。真に是れ之有れば即ち生じ、之無ければ即ち死す。汝、若し真に那個の軀殻の己が為ならば、必ず須らく這個の真己を用著すべし。便ち須らく常常、這個の真己の本体を保守し、睹(み)ざるに戒慎し、聞かざるに恐懼し、惟だ他の一些を虧損せんことを恐るべし。才かに一毫の非礼の萌動有らば、便ち刀もて割くが如く、針もて刺すが如く、忍耐し過ぎず、必ず須らく刀を去り、針を抜くべし。這れ才めて是れ己が為にするの心有り、力めて能く己に克つなり。汝、今、正に是れ賊を認めて子と作す。縁何ぞ却って己が為にするの心有りと説きて、己に克つ能わざるや」と。
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伝習録・徐愛録愛問う、「至善は只だ諸を心に求めなば、恐らくは天下の事理に於て尽くす能わざる有らん」と。先生曰く、「心は即ち理なり。天下に又た心外の事、心外の理有らんや」と。愛曰く、「父に事うるの孝、君に事うるの忠、友に交わるの信、民を治むるの仁の如きは、其の間に許多の理在る有り。恐らくは亦た察せざるべからず」と。先生嘆じて曰く、「此の説の蔽(おお)うこと久し。豈に一語の能く悟る所ならんや。今、姑(しばら)く問う所の者に就きて之を言わん。且つ父に事うるが如きは、父の上に去きて個の孝の理を求むるを成さんや。君に事うるは、君の上に去きて個の忠の理を求むるを成さんや。友に交わり民を治むるは、友の上、民の上に去きて個の信と仁の理を求むるを成さんや。都(すべ)て只だ此の心に在り。心は即ち理なり。此の心に私欲の蔽い無くんば、即ち是れ天理なり。外面に一分を添うるを須(もち)いず。此の純乎たる天理の心を以て、之を父に事うるに発せば、便ち是れ孝なり。之を君に事うるに発せば、便ち是れ忠なり。之を友に交わり民を治むるに発せば、便ち是れ信と仁なり。只だ此の心に在りて『人欲を去り、天理を存す』の上に功を用うれば便ち是れなり」と。愛曰く、「先生の此くの如く説くを聞き、愛は已に省悟する処有るを覚ゆ。但だ旧説の胸中に纏(まと)い、尚お未だ脱然たらざる者有り。父に事うるの一事の如きは、其の間に温凊・定省の類、許多の節目有り。亦た須らく講求すべからずや」と。先生曰く、「如何ぞ講求せざらん。只だ是れ個の頭脳有り。只だ是れ此の心に就きて『人欲を去り、天理を存す』の上に講求す。就ち『冬温』を講求するが如きも、也(また)只だ是れ此の心の孝を尽くさんことを要し、一毫の人欲の間雑有らんことを恐るるなり。『夏凊』を講求するも、也只だ是れ此の心の孝を尽くさんことを要し、一毫の人欲の間雑有らんことを恐るるなり。只だ是れ此の心を講求し得るなり。此の心、若し人欲無く、純ら是れ天理ならば、是れ個の孝親に誠なるの心なり。冬時は自然に父母の寒きを思量し、便ち自ら個の温むるの道理を求めんことを要す。夏時は自然に父母の熱きを思量し、便ち自ら個の凊しむるの道理を求めんことを要す。這(こ)れ都て是れ那(か)の誠孝の心の発出し来たる条件なり。却って是れ須らく這の誠孝の心有りて、然る後に這の条件の発出し来たること有るべし。之を樹木に譬うれば、這の誠孝の心は便ち是れ根なり。許多の条件は便ち是れ枝葉なり。須らく先ず根有りて、然る後に枝葉有るべし。是れ先ず枝葉を尋ねて、然る後に去きて根を種うるに非ず。『礼記』に言う、『孝子の深愛有る者は、必ず和気有り。和気有る者は、必ず愉色有り。愉色有る者は、必ず婉容有り』と。須らく是れ個の『深愛』有りて根と做(な)さば、便ち自然に此くの如し」と。
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二宮翁夜話・巻之三翁(おきな)曰(いわ)く、儒に、至善(しぜん)に止(とど)まるとあり、仏に、諸善奉行(しょぜんぶぎょう)と云(い)へり、然れども其(その)善と云ふ物、如何(いか)なる物ぞと云ふ事、慥(たし)かならぬ故に、人々善を為す積(つも)りにて、其為す処皆違(たが)へり、夫(それ)元(もと)善悪は一円(いちえん)也(なり)、盗人(ぬすびと)仲間にては、能(よく)盗(ぬす)むを善とし、人を害しても盗みさへすれば善とするなるべし、然(しか)るに、世法(せほう)は盗を大悪とす、其懸隔(けんかく)此の如し、而(しか)して天に善悪あらず、善悪は、人道にて立たる物なり、譬(たと)へば草木の如き、何ぞ善悪あらんや、此人体(じんたい)よりして、米を善とし、莠(はぐさ)を悪とす、食物になると、ならざるとを以てなり、天地何ぞ此別(このわか)ちあらん、夫莠草(はぐさ)は、生るも早く茂(しげ)るも早し、天地生々(せいせい)の道に随(したが)ふ事、速(すみやか)なれば、是を善草と云ふも不可なかるべし、米麦の如き、人力を借りて生ずる物は、天地生々の道に随ふ事、甚(はなは)だ迂闊(うかつ)なれば、悪草と云ふも不可なかるべし、然るに只(ただ)食ふべきと、食ふ可(べ)からざるとを以て、善悪を分つは、人体より出(いで)たる、癖道(へきどう)にあらずして何ぞ、此理(このり)を知らずばあるべからず、夫上下貴賤(じょうげきせん)は勿論(もちろん)、貸(か)す者と借(か)る者と、売(う)る人と買(か)ふ人と、又人を遣(つか)ふ者、人に遣(つか)はるる者に引当(ひきあ)て、能々(よくよく)思考すべし、世の中万般(ばんぱん)の事皆同じ、彼(かれ)に善なれば是(これ)に悪(あ)しく、是に悪きは彼によし、生(せい)を殺(ころ)して喰(くら)ふ者はよかるべけれど、喰はるる物には甚(はなは)だ悪(あ)し、然(しか)といへども、既(すで)に人体あり、生物を喰はざれば、生を遂(とぐ)る事能(あた)はざるを如何(いかん)せん、米麦蔬菜(そさい)といへども、皆生物にあらずや、予(よ)此理を尽(つく)し「見渡せば遠き近きは無かりけり己々(おのれおのれ)が住処(すみど)にぞある」と詠(よめ)るなり、されども、是は其理を云へるのみ、夫人(それひと)は米食(こめく)ひ虫なり、此米食虫(こめくいむし)の仲間にて、立たる道は、衣食住になるべき物を、増殖(ぞうしょく)するを善とし、此三つの物を、損害(そんがい)するを悪と定む、人道にて云ふ処の善悪は、是を定規(じょうぎ)とする也、此(これ)に基(もとづ)きて、諸般(しょはん)人の為に便利なるを善とし、不便利なるを悪と立てし物なれば、天道とは格別(かくべつ)なる事論を待(ま)たず、然といへども、天道に違(たが)ふにはあらず、天道に順(したが)ひつつ違ふ処ある道理を知らしむるのみ
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
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