伝習録 / 薛侃録
朋友觀書,多有摘議晦庵者。先生曰:「是有心求異,即不是。吾說與晦庵時有不同者,為入門下手處有毫釐千里之分,不得不辯。然吾之心與晦庵之心,未嘗異也。若其餘文義解得明當處,如何動得一字?」
新字:朋友観書,多有摘議晦庵者。先生曰:「是有心求異,即不是。吾説与晦庵時有不同者,為入門下手処有毫釐千里之分,不得不弁。然吾之心与晦庵之心,未嘗異也。若其余文義解得明当処,如何動得一字?」
書き下し
朋友、書を観るに、多く晦庵を摘議する者有り。先生曰く、「是れ心に異を求むる有らば、即ち是ならず。吾が説と晦庵と時に同じからざる者有るは、入門下手の処に毫釐千里の分有るが為なり。辯ぜざるを得ず。然れども吾が心と晦庵の心とは、未だ嘗て異ならざるなり。若し其の余の文義の解し得て明当なる処は、如何ぞ一字を動かし得んや」と。
現代語訳
友人たちが書を読んで、多くが朱子を批判した。先生は言った。「心に違いを求めるなら、それは正しくない。私の説と朱子で違う所があるのは、入門して手をつける所に、わずかな差が千里の違いを生むからだ。論じないわけにいかない。しかし私の心と朱子の心は、違ったことがない。その他の文義がよく解釈されている所は、どうして一字でも動かせようか」。
解説
異なる意見や考え方に出会ったとき、私たちはつい「違い」を探し、批判しようとしてしまいがちです。しかし、この教えは、心に「違いを求める」姿勢そのものが正しくない、と戒めます。本当に大切なのは、本質的な部分で共有できる価値観や理解を見出すことです。もし議論が必要な場合でも、それは必要最小限の、本当に重要な一点に絞るべきであり、それ以外の、共通理解が得られる部分については、素直に認める誠実さが求められます。批判のための批判ではなく、真理を探求する姿勢が大切です。
この章句が説くこと
是有心求異即不是然吾之心与晦庵之心未嘗異也
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