伝習録 / 陸澄録
「工夫難處,全在『格物』、『致知』上,此即『誠意』之事。意既誠,大段心亦自正,身亦自修。但『正心』、『修身』工夫亦各有用力處,『修身』是已發邊,『正心』是未發邊。心正則中,身修則和。」
新字:「工夫難処,全在『格物』、『致知』上,此即『誠意』之事。意既誠,大段心亦自正,身亦自修。但『正心』、『修身』工夫亦各有用力処,『修身』是已発辺,『正心』是未発辺。心正則中,身修則和。」
書き下し
「工夫の難き処は、全く『格物』『致知』の上に在り。此れ即ち『誠意』の事なり。意既に誠ならば、大段、心も亦た自ら正しく、身も亦た自ら修まる。但だ『心を正す』『身を修む』の工夫も亦た各々力を用うる処有り。『身を修む』は是れ已発の辺、『心を正す』は是れ未発の辺なり。心正しければ則ち中、身修まれば則ち和なり」。
現代語訳
「工夫の難しい所は、すべて『格物』『致知』にある。それが『誠意』の事だ。意が誠になれば、おおむね心も自ずと正しくなり、身も自ずと修まる。ただし『心を正す』『身を修める』工夫にも、それぞれ力を用いる所がある。『身を修める』は発した後の側、『心を正す』は発する前の側だ。心が正しければ中となり、身が修まれば和となる」。
解説
物事を正しく理解し、知識を深める「格物致知」が、すべての努力の出発点であり、最も難しい部分だと説かれています。ここがしっかりしていれば、心も体も自然と整っていくでしょう。ただし、行動を起こす前の「心を正す」ことと、行動を起こした後の「身を修める」ことでは、それぞれ異なる努力が必要です。どこに力を注ぐべきかを見極めることで、より効果的に自己を磨き、調和の取れた状態へと導くことができるのです。
この章句が説くこと
工夫難処全在格物致知上修身是已発辺正心是未発辺
関連する章句
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伝習録・答周道通書来書に云う、「致知の説は、春間、再び誨益を承け、已に頗る力を用うるを知る。旧に比して尤も簡易と為すを覚え得たり。但だ鄙心は則ち謂う、初学と之を言わば、還お須らく『格物』の意思を帯び、之をして手を下す処を知らしむべし。本来『致知』『格物』は一併に下る。但だ初学に在りては未だ手を下し功を用うるを知らず、還お与に『格物』を説きて、方に『致知』を暁り得ん」と云云。「格物」は是れ「致知」の功夫なり。「致知」を知り得れば便ち已に「格物」を知り得たり。若し是れ未だ「格物」を知らずんば、則ち是れ「致知」の工夫も亦た未だ嘗て知らざるなり。近ごろ一書の友人と此を論ずるもの頗る悉(つく)せる有り。今、一通を往かす。細かに之を観ば、当に自ら見るべし。
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伝習録・黄以方録黄以方問う、「『博く文を学ぶ』は事に随いて此の天理を存するを学ぶと為す。然らば則ち『行いて余力有らば、則ち以て文を学ぶ』と謂うは、其の説、相い合わざるに似たり」と。先生曰く、「『詩』『書』・六芸は、皆な是れ天理の発見なり。文字は都て其の中に包まる。之を『詩』『書』・六芸に考うるは、皆な此の天理を存するを学ぶ所以なり。特に事為に発見する者のみ方に文と為すにあらず。『余力あらば文を学ぶ』も亦た只だ『博く文を学ぶ』中の事なり」と。或るひと「学びて思わず」の二句を問う。曰く、「此れも亦た為にする有りて言う。其の実、思うは即ち学なり。学びて疑う所有らば、便ち須らく之を思うべし。『思いて学ばず』とは、蓋し此等の人有り。只だ懸空に去きて思い、一の想個の道理を想い出ださんことを要す。却って身心の上に在りて実に其の力を用い、以て此の天理を存するを学ばず。思と学とを両事と作して做す。故に『罔(くら)し』と『殆(あや)うし』の病有り。其の実、思うは只だ是れ其の学ぶ所を思う。原と両事に非ざるなり」と。先生曰く、「先儒、『格物』を解して天下の物を格すと為す。天下の物、如何ぞ格し得んや。且つ一草一木も亦た皆な理有りと謂う。今、如何ぞ去きて格さんや。縦い草・木を格し得来たるも、如何ぞ反り来たりて自家の意を誠にし得んや。我、『格』を解して『正』の字の義と作し、『物』を『事』の字の義と作す。『大学』の所謂る『身』は、即ち耳・目・口・鼻・四肢、是なり。身を修めんと欲するは便ち是れ、目は礼に非ずんば視る勿かれ、耳は礼に非ずんば聴く勿かれ、口は礼に非ずんば言う勿かれ、四肢は礼に非ずんば動く勿かれ、と要するなり。這個の身を修めんことを要するに、身上に如何ぞ工夫を用い得んや。心なる者は、身の主宰なり。目は視ると雖も、而して視る所以の者は、心なり。耳は聴くと雖も、而して聴く所以の者は、心なり。口と四肢とは言い動くと雖も、而して言い動く所以の者は、心なり。故に身を修めんと欲するは自家の心体を体当し、常に廓然大公にして、些子も正しからざる処有る無からしむるに在り。主宰、一たび正しければ、則ち目に竅を発するも、自ら礼に非ざるの視る無く、耳に竅を発するも、自ら礼に非ざるの聴く無く、口と四肢とに竅を発するも、自ら礼に非ざるの言い動く無し。此れ便ち是れ身を修むるは其の心を正すに在るなり。然れども至善なる者は、心の本体なり。心の本体、那ぞ不善有らんや。如今、心を正さんと要するに、本体の上、何処にか功を用い得んや。必ず心の発動する処に就きて、纔(はじ)めて力を著くべきなり。心の発動は不善無き能わず。故に須らく此の処に就きて力を著くべし。便ち是れ『誠意』に在るなり。一念、善を好むに発せば、便ち実実落落として去きて善を好むが如し。一念、悪を悪むに発せば、便ち実実落落として去きて悪を悪む。意の発する所、既に誠ならざる無くんば、則ち其の本体、如何ぞ正しからざる的有らんや。故に其の心を正さんと欲するは意を誠にするに在り。工夫、誠意に到りて、始めて著落の処有り。然れども誠意の本は、又た知を致すに在るなり。所謂る『人、知らずと雖も、己の独り知る者』、此れ正に是れ吾が心の良知の処なり。然れども善を知り得て、却って這個の良知に依りて便ち做し去らず、不善を知り得て、却って這個の良知に依りて便ち去きて做さずんば、則ち這個の良知は便ち遮蔽し了る。是れ知を致す能わざるなり。吾が心の良知、既に擴充して底に到る能わずんば、則ち善は好むを知ると雖も、著実に好む能わず。悪は悪むを知ると雖も、著実に悪む能わず。如何ぞ意の誠なるを得んや。故に知を致すは、意の誠なるの本なり。然れども亦た是れ懸空の致知にあらず。知を致すは実事の上に在りて格す。意、善を為すに在らば、便ち這件の事の上に就きて去きて為し、意、悪を去るに在らば、便ち這件の事の上に就きて去きて為さざるが如し。悪を去るは固より是れ不正を格して以て正に帰す。善を為すは則ち不善、正されたり。亦た是れ不正を格して以て正に帰すなり。此くの如くんば、則ち吾が心の良知、私欲の蔽う無くして、以て其の極を致すを得たり。而して意の発する所、善を好み悪を去ること、誠ならざる有る無し。誠意の工夫の実に手を下す処は格物に在るなり。若し此くの如く物を格さば、人人、便ち做し得たり。人皆な以て堯・舜と為るべしとは、正に此に在るなり」と。
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伝習録・陸澄録「格物」を問う。先生曰く、「格とは、正なり。其の不正を正して、以て正に帰するなり」と。
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伝習録・陸澄録曰仁云う、「心は猶お鏡のごときなり。聖人の心は明鏡の如く、常人の心は昏鏡の如し。近世の『格物』の説は、鏡を以て物を照らすが如し。照らす上に功を用うるも、鏡の尚お昏きに在るを知らず。何ぞ能く照らさん。先生の『格物』は、鏡を磨きて之をして明ならしむるが如し。磨く上に功を用うれば、明らかなる後、亦た未だ嘗て照らすを廃せず」と。
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伝習録・薛侃録守衡問う、「『大学』の工夫は只だ是れ誠意。誠意の工夫は只だ是れ格物なり。修・斉・治・平も、只だ誠意にて尽くる。又た正心の功有り。忿懥・好楽する所有らば則ち其の正を得ずとは、何ぞや」と。先生曰く、「此れは自ら思いて之を得るを要す。此を知らば則ち『未発の中』を知らん」と。守衡、再三請う。曰く、「学を為すの工夫に浅深有り。初めの時、若し著実に意を用いて善を好み悪を悪むに去かずんば、如何ぞ能く善を為し悪を去らん。這の著実に意を用うるは便ち是れ誠意なり。然れども心の本体は原と一物無きを知らずして、一向、意を著けて善を好み悪を悪めば、便ち又た這の分の意思を多くす。便ち是れ廓然大公ならず。『書』に所謂る『好を作し悪を作す有る無し』とは、方に是れ本体なり。所以に説く、『忿懥・好楽する所有らば、則ち其の正を得ず』と。心を正すは只だ是れ誠意の工夫の裏面に自家の心体を体当し、常に鑑の空しく衡の平らかなるを要するなり。這れ便ち是れ『未発の中』なり」と。
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伝習録・答顧東橋書来書に云う、「知を致すの功は、如何にして温凊を為し、如何にして奉養を為すかを将(もっ)て、即ち是れ『誠意』にして、別に所謂る『格物』有るに非ずと謂う。此れも亦た恐らくは非ならん」と。此れ乃ち吾子、自ら己が意を以て鄙見を揣度して是の説を為す。鄙人の吾子に告ぐる所以の者に非ざるなり。若し果たして吾子の言の如くんば、寧ぞ復た通ずべき有らんや。蓋し鄙人の見は、則ち謂う、意、温凊せんと欲し、意、奉養せんと欲する者は、所謂る「意」なり。而して未だ之を「誠意」と謂うべからず。必ず実に其の温凊・奉養の意を行い、務めて自ら慊(あきた)りて自ら欺く無きを求め、然る後に之を「誠意」と謂う。如何にして温凊の節を為すかを知り、如何にして奉養の宜しきを為すかを知る者は、所謂る「知」なり。而して未だ之を「致知」と謂うべからず。必ず其の如何にして温凊の節を為すかを知るの知を致して、実に以て之を温凊し、其の如何にして奉養の宜しきを為すかを知るの知を致して、実に以て之を奉養し、然る後に之を「致知」と謂う。温凊の事、奉養の事は、所謂る「物」なり。而して未だ之を「格物」と謂うべからず。必ず其の温凊の事に於けるや、一に其の良知の知る所の当に如何にして温凊の節を為すべきかの者の如くにして之を為し、一毫の尽くさざる無く、奉養の事に於けるや、一に其の良知の知る所の当に如何にして奉養の宜しきを為すべきかの者の如くにして之を為し、一毫の尽くさざる無く、然る後に之を「格物」と謂う。温凊の物、格りて、然る後に温凊の良知を知ること始めて致る。奉養の物、格りて、然る後に奉養の良知を知ること始めて致る。故に曰く、「物格りて而る後に知至る」と。其の温凊を知るの良知を致して、而る後に温凊の意始めて誠なり。其の奉養を知るの良知を致して、而る後に奉養の意始めて誠なり。故に曰く、「知至りて而る後に意誠なり」と。此れ区区の「誠意・致知・格物」の説、蓋し此くの如し。吾子、更に之を熟思せば、将た亦た疑うべき者無からん。
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