伝習録 / 陸澄録
問:「身之主為心,心之靈明是知,知之發動是意,意之所著為物,是如此否?」先生曰:「亦是。」
新字:問:「身之主為心,心之霊明是知,知之発動是意,意之所著為物,是如此否?」先生曰:「亦是。」
書き下し
問う、「身の主は心と為り、心の霊明は是れ知、知の発動は是れ意、意の著く所は物と為る。是れ此くの如きや否や」と。先生曰く、「亦た是なり」と。
現代語訳
尋ねた。「身の主は心であり、心の霊妙な明るさが知であり、知が発動したものが意であり、意が着いた先が物である。こういうことでしょうか」。先生は言った。「そのとおりだ」。
解説
私たちの「身」を動かすのは「心」であり、その心の輝きが「知」となり、知が動き出すと「意」が生まれます。そして、その意が向かう先が「物」として認識されます。この連なりは、私たちが世界をどのように認識し、行動しているかを示しています。外に独立した「物」があるのではなく、私たちの意識の動きが、世界を形作っているのです。自分の意識が、どのように物事を捉え、行動に繋がっているのかを理解する手がかりとなるでしょう。
この章句が説くこと
身之主為心心之霊明是知知之発動是意意之所著為物
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