伝習録 / 陸澄録
問:「伊川謂『不當於喜怒哀樂未發之前求中』,延平卻教學者『看未發之前氣象』,何如?」先生曰:「皆是也。伊川恐人於未發前討個中,把中做一物看,如吾向所謂認氣定時做中,故令只於涵養省察上用功。延平恐人未便有下手處,故令人時時刻刻求未發前氣象,使人正目而視惟此,傾耳而聽惟此,即是『戒慎不睹,恐懼不聞』的工夫。皆古人不得已誘人之言也。」
新字:問:「伊川謂『不当於喜怒哀楽未発之前求中』,延平却教学者『看未発之前気象』,何如?」先生曰:「皆是也。伊川恐人於未発前討個中,把中做一物看,如吾向所謂認気定時做中,故令只於涵養省察上用功。延平恐人未便有下手処,故令人時時刻刻求未発前気象,使人正目而視惟此,傾耳而聴惟此,即是『戒慎不睹,恐懼不聞』的工夫。皆古人不得已誘人之言也。」
書き下し
問う、「伊川は『喜怒哀楽未発の前に中を求むるに当たらず』と謂い、延平は却って学者に『未発の前の気象を看よ』と教う。何如」と。先生曰く、「皆な是なり。伊川は人の未発の前に於て個の中を討め、中を把(と)りて一物と做して看るを恐る。吾が向に所謂る気の定まる時を認めて中と做すが如し。故に只だ涵養省察の上に功を用いしむ。延平は人の未だ便ちに手を下す処有らざるを恐る。故に人をして時時刻刻に未発の前の気象を求め、人をして目を正しくして視るも惟だ此、耳を傾けて聴くも惟だ此ならしむ。即ち是れ『睹(み)ざるに戒慎し、聞かざるに恐懼す』の工夫なり。皆な古人の已むを得ずして人を誘うの言なり」と。
現代語訳
尋ねた。「程伊川は『喜怒哀楽が発する前に中を求めてはならない』と言い、李延平はむしろ学ぶ者に『未発の前の気配を看よ』と教えます。どうでしょう」。先生は言った。「どちらも正しい。伊川は、人が未発の前に中を探し、中を一つの物として見ることを恐れた。私が前に言った、気が定まった時を中だと思い込むようなものだ。だから、養い省みることに努力させた。延平は、人が手のつけようがないことを恐れた。だから、常に未発の前の気配を求めさせ、目を正して見るのもこれだけ、耳を傾けて聴くのもこれだけとさせた。それが『見ないところで戒め慎み、聞かないところで恐れおののく』工夫だ。どちらも古人がやむを得ず人を導いた言葉だ」。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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伝習録・陳九川録又た問う、「陸子の学は何如」と。先生曰く、「濂渓・明道の後、還お是れ象山なり。只だ是れ粗きこと些(すこ)しあり」と。九川曰く、「他の学を論ずるを看るに、篇篇、骨髄を説き出だし、句句、膏肓に鍼するに似たり。却って他の粗きを見ず」と。先生曰く、「然り。他は心上に功夫を用い過ぎたり。揣摸依仿し、之を文義に求むると自ら同じからず。但だ細かに看れば粗き処有り。功を用うること久しくば、当に之を見るべし」と。
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伝習録・陸澄録澄、嘗て象山の人情事変の上に工夫を做すの説を問う。先生曰く、「人情事変を除き了らば、則ち事無きなり。喜・怒・哀・楽は、人情に非ずや。視・聴・言・動より以て富貴・貧賤・患難・死生に至るまで、皆な事変なり。事変も亦た只だ人情の裏に在り。其の要は只だ『中和を致す』に在り。『中和を致す』は只だ『独を謹む』に在り」と。
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伝習録・陸澄録問う、「寧静にして心を存する時は、『未発の中』と為すべきや否や」と。先生曰く、「今人の心を存するは、只だ気を定め得るのみ。其の寧静なる時に当たりても、亦た只だ是れ気の寧静なるのみ。以て『未発の中』と為すべからず」と。曰く、「『未』は便ち是れ『中』なり。亦た是れ『中』を求むるの工夫ならざるか」と。曰く、「只だ人欲を去り天理を存せんことを要すれば、方に是れ工夫なり。静なる時に念念に人欲を去り天理を存し、動なる時に念念に人欲を去り天理を存す。寧静なると寧静ならざるとを管せず。若し那の寧静に靠(よ)らば、惟だ漸く静を喜び動を厭うの弊有るのみならず、中間の許多の病痛、只だ是れ潜伏し在り、終に絶ち去る能わず。事に遇わば旧に依りて滋長せん。理に循うを以て主と為さば、何ぞ嘗て寧静ならざらん。寧静を以て主と為さば、未だ必ずしも理に循う能わず」と。
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伝習録・陳九川録九川、問いて曰く、「伊川、体用一原、顕微間無しの処に説き到るや、門人、已に是れ天機を泄らすと説けり。先生の『致知』の説も、亦た天機を泄らすこと太だ甚だしからざるか」と。先生曰く、「聖人は已に指して以て人に示せり。只だ後人の揜匿するが為に、我、発明するのみ。何の故に泄らすと説かん。此れ是れ人人、自ら有する的なり。覚り来たれば甚だ打緊せざる一般なり。然れども実功を用いざる人と説かば、亦た甚だ軽忽にして惜しむべし。彼此、益無し。実に功を用いて其の要を得ざる者と与に之を提撕せば、甚だ沛然として力を得ん」と。
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伝習録・陸澄録澄問う、「喜怒哀楽の中・和は、其の全体、常人は固より有る能わず。一件の小事の喜怒すべき者の如き、平時に喜怒の心有る無く、其の時に臨むに至りて、亦た能く節に中らば、亦た之を中・和と謂うべきか」と。先生曰く、「一時一事に在りては、固より亦た之を中・和と謂うべし。然れども未だ之を大本・達道と謂うべからず。人性は皆な善なり。中・和は是れ人人原(もと)より有る的なり。豈に無しと謂うべけんや。但だ常人の心は既に昏蔽する所有れば、則ち其の本体は亦た時時に発見すと雖も、終に是れ暫く明らかに暫く滅す。其の全体大用に非ざるなり。中らざる所無くして、然る後に之を『大本』と謂う。和せざる所無くして、然る後に之を『達道』と謂う。惟だ天下の至誠のみ、然る後に能く天下の『大本』を立つ」と。曰く、「澄は『中』の字の義に於て尚お未だ明らかならず」と。曰く、「此れ須らく自ら心もて体認し出だし来たるべし。言語の能く喩す所に非ず。『中』は只だ是れ天理なり」と。曰く、「何者をか天理と為す」と。曰く、「人欲を去り得れば、便ち天理を識る」と。曰く、「天理は何を以て之を中と謂うか」と。曰く、「偏倚する所無し」と。曰く、「偏倚する所無しとは是れ何等の気象ぞ」と。曰く、「明鏡の然るが如し。全体瑩徹にして、略ぼ纖塵の染著する無し」と。曰く、「偏倚は是れ染著する所有り。好色・好利・好名等の項の上に著くが如きは、方に偏倚を見得たり。若し未発の時は、美色・名・利、皆な未だ相い著かず。何を以て便ち其の偏倚する所有るを知らん」と。曰く、「未だ相い著かずと雖も、然れども平日の好色・好利・好名の心は原より未だ嘗て無からず。既に未だ嘗て無からずんば、即ち之を有りと謂う。既に之を有りと謂わば、則ち亦た偏倚無しと謂うべからず。之を瘧を病む人に譬うれば、時に発せざる有りと雖も、而も病根は原より曾て除かずんば、則ち亦た之を病無きの人と謂うを得ざるなり。須らく是れ平日の好色・好利・好名等の項の一切の私心を、掃除蕩滌し、復た纖毫の留滞無くして、而して此の心の全体廓然として、純ら是れ天理なるべし。方に之を『喜怒哀楽未発の中』と謂うべく、方に是れ『天下の大本』なり」と。
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伝習録・陳九川録門人、座に在り。動止、甚だ矜持する者有り。先生曰く、「人、若し矜持すること太だ過ぎば、終に是れ弊有り」と。曰く、「矜すること太だ過ぐるも、如何ぞ弊有らんや」と。曰く、「人は只だ許多の精神有り。若し専ら容貌の上に功を用いなば、則ち中心に於て照管の及ばざる者、多からん」と。太だ直率なる者有り。先生曰く、「如今、此の学を講じて、却って外面、全く検束せずんば、又た心と事とを分ちて二と為すなり」と。
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