伝習録 / 陸澄録
先生曰:「諸公近見時,少疑問,何也?人不用功,莫不自以為已知為學,只循而行之是矣。殊不知私欲日生,如地上塵,一日不掃便又有一層。著實用功,便見道無終窮;愈探愈深,必使精白、無一毫不徹方可。」
新字:先生曰:「諸公近見時,少疑問,何也?人不用功,莫不自以為已知為学,只循而行之是矣。殊不知私欲日生,如地上塵,一日不掃便又有一層。著実用功,便見道無終窮;愈探愈深,必使精白、無一毫不徹方可。」
書き下し
先生曰く、「諸公、近ごろ見(まみ)ゆる時、疑問少なし。何ぞや。人、功を用いずんば、自ら以て已に学を為すを知り、只だ循いて之を行うのみにて是なりと為さざる莫し。殊に知らず、私欲は日々に生ずること、地上の塵の如く、一日も掃わざれば便ち又た一層有るを。著実に功を用うれば、便ち道に終窮無きを見る。愈々探れば愈々深し。必ず精白にして、一毫も徹せざる無からしめて方に可なり」と。
現代語訳
先生は言った。「諸君は近ごろ会う時、疑問が少ない。なぜか。努力しない人は、自分はもう学問を知っている、ただ従って行えばよいと思い込むものだ。しかし知らないのだ。私欲は日々生じ、地面の塵のように、一日掃かなければ、また一層積もることを。着実に努力すれば、道に終わりがないと分かる。探るほど深い。必ず真っ白にして、一毛ほども透らない所がないようにして、初めてよい」。
解説
疑問が少ないのは、必ずしも進歩の証ではありません。王陽明は、努力を怠ると「私欲は日々生じ、地面の塵のように、一日掃かなければ、また一層積もる」と警告します。放っておけば、心は自然と曇り、物事の本質が見えにくくなります。常に自分と向き合い、内面を「掃き清める」努力を続けることで、初めて道の奥深さが見え、探求し続けることの重要性を実感できるでしょう。
この章句が説くこと
私欲日生如地上塵一日不掃便又有一層愈探愈深習慣
関連する章句
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