伝習録 / 陸澄録
澄問《學》、《庸》同異。先生曰:「子思括《大學》一書之義,為《中庸》首章。」
新字:澄問《学》、《庸》同異。先生曰:「子思括《大学》一書之義,為《中庸》首章。」
書き下し
澄、『大学』『中庸』の同異を問う。先生曰く、「子思は『大学』一書の義を括りて、『中庸』の首章と為す」と。
現代語訳
陸澄が『大学』と『中庸』の異同を尋ねた。先生は言った。「子思は『大学』一書の意味をまとめて、『中庸』の首章とした」。
解説
『大学』と『中庸』という二つの古典について、異なるものとして比較するのではなく、王陽明は『中庸』の冒頭が『大学』全体の要約であると説きます。これは、物事を細かく分けて比較するのではなく、その根底にある共通の本質や繋がりを見出す視点の重要性を示唆しています。表面的な違いにとらわれず、物事の全体像や核心を捉えようとすることで、より深い理解や洞察が得られるでしょう。
この章句が説くこと
子思括大学一書之義為中庸首章中庸本質
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