伝習録 / 陸澄録
問:「『析之有以極其精而不亂,然後合之有以盡其大而無餘』,此言如何?」先生曰:「恐亦未盡。此理豈容分析?又何須湊合得?聖人說『精一』,自是盡。」
新字:問:「『析之有以極其精而不乱,然後合之有以尽其大而無余』,此言如何?」先生曰:「恐亦未尽。此理豈容分析?又何須湊合得?聖人説『精一』,自是尽。」
書き下し
問う、「『之を析(わか)ちて以て其の精を極めて乱れざる有り、然る後に之を合して以て其の大を尽くして余す無き有り』。此の言は如何」と。先生曰く、「恐らくは亦た未だ尽くさず。此の理、豈に分析を容れんや。又た何ぞ須らく湊合し得べけんや。聖人は『精一』と説く。自ずから是れ尽くせり」と。
現代語訳
尋ねた。「『分けてその精密さを極めて乱れず、その後に合わせてその大きさを尽くして余りがない』。この言葉はどうですか」。先生は言った。「まだ尽くしていない。この理を、どうして分析できよう。どうして継ぎ合わせる必要があろう。聖人は『精一』と説いた。それで尽きている」。
解説
複雑な問題を前にした時、私たちはまず細かく分析し、その後で全体を統合しようとしがちです。しかし、この一節は、それでは本質を見失う可能性があると指摘します。もともと一つであるものを、わざわざ分けてからまた合わせるという手間が、かえって物事の全体像や根源的な道理から遠ざけてしまうことがあるのです。時には、細分化するよりも、全体をあるがままに捉える視点を持つことが、より深い理解へと繋がるかもしれません。
この章句が説くこと
此理豈容分析又何須湊合得聖人説精一自是尽
関連する章句
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伝習録・答陸原静書来書に云う、「前日の精一の論は、即ち聖を作すの功なりや否や」と。「精一」の「精」は理を以て言う。「精神」の「精」は気を以て言う。理なる者は、気の条理なり。気なる者は、理の運用なり。条理無くんば則ち運用する能わず。運用無くんば則ち亦た以て其の所謂る条理なる者を見る無し。精なれば則ち精、精なれば則ち明、精なれば則ち一、精なれば則ち神、精なれば則ち誠なり。一なれば則ち精、一なれば則ち明、一なれば則ち神、一なれば則ち誠なり。原と二事有るに非ざるなり。但だ後世の儒者の説と養生の説と、各々一偏に滞る。是を以て相い用を為さず。前日の「精一」の論は、原静の精神を愛養するが為に発すと雖も、然り而して聖を作すの功も、実に亦た是に外ならざるなり。
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伝習録・黄省曾録先生曰く、「功を用いて精しき処に到らば、愈々言語を著け得ず、理を説くこと愈々難し。若し意を精微の上に著けなば、全体の功夫は反りて蔽泥せん」と。
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伝習録・陸澄録問う、「後世の著述の多きは、恐らくは亦た正学を乱す有らん」と。先生曰く、「人心の天理は渾然たり。聖賢の之を書に筆するは、真を写し神を伝うるが如し。人に示すに形状の大略を以てし、之をして此に因りて其の真を討求せしむるに過ぎざるのみ。其の精神意気、言笑動止は、固より伝うる能わざる所有り。後世の著述は、是れ又た聖人の画く所を将(もっ)て、摹倣謄写して、妄りに自ら分析加増し、以て其の技を逞しくす。其の真を失うこと愈々遠し」と。
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伝習録・陸澄録「至善なる者は、性なり。性は元より一毫の悪無し。故に『至善』と曰う。之に止まるは、是れ其の本然に復するのみ」。
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伝習録・陸澄録問う、「至善は即ち吾が性なり、吾が性は吾が心に具わる、吾が心は乃ち至善の止まる所の地なりと知らば、則ち向時の紛然として外に求むるを為さずして、志定まらん。定まれば則ち擾擾たらずして静なり。静にして妄動せざれば則ち安し。安ければ則ち一心一意、只だ此の処に在り、千思万想して、務めて必ず此の至善を得んことを求む。是れ能く慮りて得るなり。此くの如く説くは是なりや否や」と。先生曰く、「大略、亦た是なり」と。
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伝習録・黄省曾録先生、陸元静に語りて曰く、「元静は少年にして亦た『五経』を解せんことを要す。志も亦た博きを好む。但だ聖人の人に教うるは、只だ人の簡易ならざるを怕(おそ)る。他の説く所は皆な是れ簡易の規なり。今人の博きを好むの心を以て之を観れば、却って聖人の人に教うるは差えりと似たり」と。
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