伝習録 / 陸澄録
「知者行之始,行者知之成。聖學只一個功夫,知、行不可分作兩事。」
新字:「知者行之始,行者知之成。聖学只一個功夫,知、行不可分作両事。」
書き下し
「知は行の始め、行は知の成るなり。聖学は只だ一個の功夫なり。知・行は分ちて両事と作すべからず」。
現代語訳
「知は行の始めであり、行は知の完成である。聖人の学は、ただ一つの工夫だ。知と行を、二つの事に分けてはならない」。
解説
知識を得ることと、実際に行動することは、別々のことだと考えられがちです。しかし、この二つは決して切り離せるものではありません。知は行動のきっかけとなり、行動は知を確かなものにする。つまり、知っているだけで行動しなければ、その知は生かされず、行動するだけで深く考えなければ、それは盲目的なものになってしまいます。日々の生活や仕事の中で、学びと実践を常に結びつけ、両方を高めていくことが、真の成長へと繋がるでしょう。
この章句が説くこと
知者行之始行者知之成聖学只一個功夫知行不可分作両事実践中庸
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