呂氏春秋 / 別類⑥
驥驁綠耳背日而西走,至乎夕則日在其前矣。目固有不見也,智固有不知也,數固有不及也。不知其說所以然而然,聖人因而興制,不事心焉。
新字:驥驁綠耳背日而西走,至乎夕則日在其前矣。目固有不見也,智固有不知也,数固有不及也。不知其説所以然而然,聖人因而興制,不事心焉。
書き下し
驥・驁・綠耳日に背いて西走し、夕に至れば則ち日は其の前に在り。目は固より見えざる有るなり、智は固より知らざる有るなり、數は固より及ばざる有るなり。其の說然る所以を知らずして然るもの、聖人は因りて制を興し、心を事とせず。
現代語訳
驥・驁・緑耳という名馬が日に背を向けて西へ走っても、夕方になると日はその前にある(西に回っている)。目にはもともと見えないものがあり、知恵にはもともと知りえないものがあり、算数にはもともと及ばないものがある。なぜそうなるのか、その理由を知らずともそうなるものについては、聖人はそれに拠って制度を興し、あれこれ思い悩んだりはしない。
解説
この段は、名馬でも太陽の運行には追いつけないことを引いて、人間の認識能力の限界を説きます。目に見えぬもの、知に及ばぬもの、計算の届かぬものがあると認め、その上で聖人はわからぬ理由に固執せず、現に「そうなる」事実に基づいて制度を立てる、と論じます。背景には、万事を知性で説明し尽くそうとする態度への抑制があります。核心は、原理不明でも機能する経験知の尊重です。現代でも、なぜ効くか完全には解明されていない知見を実用に生かす場面は多く、全容解明を待たずに機能する事実へ制度設計する現実的姿勢は、科学と実務の橋渡しとして示唆に富みます。