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呂氏春秋 / 精諭④

白公問於孔子曰:「人可與微言乎?」孔子不應。白公曰:「若以石投水奚若?」孔子曰:「沒人能取之。」白公曰:「若以水投水奚若?」孔子曰:「淄、澠之合者,易牙嘗而知之。」白公曰:「然則人不可與微言乎?」孔子曰:「胡為不可?唯知言之謂者為可耳。」白公弗得也。知謂則不以言矣。言者,謂之屬也。求魚者濡,爭獸者趨,非樂之也。故至言去言,至為無為。淺智者之所爭則末矣。此白公之所以死於法室。

新字:白公問於孔子曰:「人可与微言乎?」孔子不応。白公曰:「若以石投水奚若?」孔子曰:「没人能取之。」白公曰:「若以水投水奚若?」孔子曰:「淄、澠之合者,易牙嘗而知之。」白公曰:「然則人不可与微言乎?」孔子曰:「胡為不可?唯知言之謂者為可耳。」白公弗得也。知謂則不以言矣。言者,謂之属也。求魚者濡,争獣者趨,非楽之也。故至言去言,至為無為。浅智者之所争則末矣。此白公之所以死於法室。

書き下し

白公、孔子に問いて曰く、「人は與に微言す可きか。」孔子應えず。白公曰く、「若し石を以て水に投ずれば奚若。」孔子曰く、「沒人能く之を取る。」白公曰く、「若し水を以て水に投ずれば奚若。」孔子曰く、「淄・澠の合する者、易牙嘗めて之を知る。」白公曰く、「然らば則ち人は與に微言す可からざるか。」孔子曰く、「胡ぞ不可と為さん。唯だ言の謂を知る者、可と為すのみ。」白公得ざるなり。謂を知れば則ち言を以いず。言とは、謂の屬なり。魚を求むる者は濡れ、獸を争う者は趨る。之を樂しむに非ざるなり。故に至言は言を去り、至為は爲す無し。淺智者の爭う所は則ち末なり。此れ白公の法室に死せし所以なり。

現代語訳

白公が孔子に問うた、「人と密かな相談はできるものですか。」孔子は答えない。白公が「石を水に投げ込めばどうですか」と言うと、孔子は「潜水の名人ならそれを取れる」と答えた。白公が「水を水に投げ込めばどうですか」と言うと、孔子は「淄水と澠水を混ぜても、易牙は舐めて味を見分ける」と答えた。白公が「では人と密かな相談はできないのですか」と言うと、孔子は「なぜできないことがあろう。ただ言葉の真意を知る者だけができるのだ」と答えた。白公にはそれが分からなかった。真意を知れば言葉を用いない。言葉とは真意に付属するものである。魚を求める者は濡れ、獣を争う者は走る。それを楽しむからではない。だから最高の言は言葉を去り、最高の行為は作為をしない。浅知恵の者が争うのは末梢である。これが白公が獄舎で死んだ理由である。

解説

この段は、密談の可否を問う白公に孔子が寓意で答える話です。石を水に投げても名人は探り当て、水に水を混ぜても味の達人は見分けるように、隠し事は必ず見抜かれる。だが真意を悟る者どうしなら言葉に頼らず通じ合えると孔子は説きます。要点は、言葉は真意に従属する手段にすぎず、真意を掴む者こそ意思を通わせられるということです。謀反を企てた白公がこの機微を理解できず滅んだ背景があります。現代でも、言葉尻や小手先の言い回しにとらわれると本質を見失います。相手の言葉の奥にある真意を読み取る力こそ重要だと教える一段です。

この一句を、あなたの毎日に。

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