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呂氏春秋 / 審應④

魏昭王問於田詘曰:「寡人之在東宮之時,聞先生之議曰:『為聖易。』有諸乎?」田詘對曰:「臣之所舉也。」昭王曰:「然則先生聖于?」田詘對曰:「未有功而知其聖也,是堯之知舜也;待其功而後知其舜也,是市人之知聖也。今詘未有功,而王問詘曰『若聖乎』,敢問王亦其堯邪?」昭王無以應。田詘之對,昭王固非曰「我知聖也」耳,問曰「先生其聖乎」,己因以知聖對昭王,昭王有非其有,田詘不察。

新字:魏昭王問於田詘曰:「寡人之在東宮之時,聞先生之議曰:『為聖易。』有諸乎?」田詘対曰:「臣之所舉也。」昭王曰:「然則先生聖于?」田詘対曰:「未有功而知其聖也,是堯之知舜也;待其功而後知其舜也,是市人之知聖也。今詘未有功,而王問詘曰『若聖乎』,敢問王亦其堯邪?」昭王無以応。田詘之対,昭王固非曰「我知聖也」耳,問曰「先生其聖乎」,己因以知聖対昭王,昭王有非其有,田詘不察。

書き下し

魏の昭王、田詘に問いて曰く、「寡人の東宮に在りしの時、先生の議を聞けり、曰く、『聖と為るは易し。』諸れ有るか。」田詘對えて曰く、「臣の舉ぐる所なり。」昭王曰く、「然らば則ち先生は聖たるか。」田詘對えて曰く、「未だ功有らずして其の聖たるを知るや、是れ堯の舜を知るなり。其の功を待ちて、而る後に其の舜を知るや、是れ市人の聖を知るなり。今詘未だ功有らざるに、王詘に問いて曰く、『若聖たるか。』敢て問う、王も亦た其れ堯たるか。」昭王以て應うる無し。田詘の對うるや、昭王固より我聖たるを知ると曰うに非ざるなり。且に問いて、先生は其れ聖たるか、と曰うを、己因りて聖たるを知るを以て昭王に對う。昭王、其の有るを非ざること有るも、田詘察せず。

現代語訳

魏の昭王が田詘に問うた、「私が東宮にいたとき、先生が『聖人になるのはたやすい』と論じたと聞いた。そんなことがあったか。」田詘は「私が唱えたことです」と答えた。昭王が「では先生は聖人なのか」と問うと、田詘は答えた、「まだ功績がないのにその人が聖人だと見抜くのは、堯が舜を見抜いたようなものです。功績を待って初めて舜と分かるのは、市井の人が聖人を知るのと同じです。今、私にはまだ功績がないのに、王は私に聖人かと問われる。あえて申しますが、王もまた堯なのですか。」昭王は返す言葉がなかった。田詘の答え方について言えば、昭王はもともと自分が聖人を見抜けるとは言っていない。ただ先生は聖人かと問うただけなのに、田詘は聖人を見抜く力があると答えたことにして昭王に応じた。昭王は自分が言ってもいないことを言ったことにされたのに、田詘はそれに気づかなかった。

解説

この段は、聖人になるのは易しいと論じた田詘が、王から本当に聖人かと問われ、功績もないのに聖人と見抜けるなら王は堯と同じかと切り返す問答です。著者は、王は自分が聖人を見抜けるとは言っていないのに、田詘がそう決めつけて応じた点を見抜けなかったと批判します。相手の問いを勝手に読み替え、言ってもいないことを前提に反論する論法の落とし穴を突いた背景があります。現代の議論でも、相手の発言を自分に都合よく拡大解釈して反論する藁人形論法は横行します。相手の言葉を正確に受け止めることの大切さを、この対話は示しています。

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