呂氏春秋 / 君守②
夫一能應萬、無方而出之務者,唯有道者能之。魯鄙人遺宋元王閉,元王號令於國,有巧者皆來解閉。人莫之能解。兒說之弟子請往解之,乃能解其一,不能解其一,且曰:「非可解而我不能解也,固不可解也。」問之魯鄙人。鄙人曰:「然,固不可解也。我為之而知其不可解也。今不為而知其不可解也,是巧於我。」故如兒說之弟子者,以「不解」解之也。鄭大師文終日鼓瑟而興,再拜其瑟前曰:「我效於子,效於不窮也。」故若大師文者,以其獸者先之,所以中之也。故思慮自心傷也,智差自亡也,奮能自殃,其有處自狂也。故至神逍遙倏忽而不見其容,至聖變習移俗而莫知其所從,離世別群而無不同,君民孤寡而不可障壅,此則姦邪之情得而險陂讒慝諂諛巧佞之人無由入。凡姦邪險陂之人,必有因也。何因哉?因主之為。人主好以己為,則守職者舍職而阿主之為矣。阿主之為,有過則主無以責之,則人主日侵而人臣日得。是宜動者靜,宜靜者動也;尊之為卑,卑之為尊,從此生矣。此國之所以衰而敵之所以攻之者也。
新字:夫一能応万、無方而出之務者,唯有道者能之。魯鄙人遺宋元王閉,元王号令於国,有巧者皆来解閉。人莫之能解。児説之弟子請往解之,乃能解其一,不能解其一,且曰:「非可解而我不能解也,固不可解也。」問之魯鄙人。鄙人曰:「然,固不可解也。我為之而知其不可解也。今不為而知其不可解也,是巧於我。」故如児説之弟子者,以「不解」解之也。鄭大師文終日鼓瑟而興,再拝其瑟前曰:「我効於子,効於不窮也。」故若大師文者,以其獣者先之,所以中之也。故思慮自心傷也,智差自亡也,奮能自殃,其有処自狂也。故至神逍遙倏忽而不見其容,至聖変習移俗而莫知其所従,離世別群而無不同,君民孤寡而不可障壅,此則姦邪之情得而険陂讒慝諂諛巧佞之人無由入。凡姦邪険陂之人,必有因也。何因哉?因主之為。人主好以己為,則守職者舎職而阿主之為矣。阿主之為,有過則主無以責之,則人主日侵而人臣日得。是宜動者静,宜静者動也;尊之為卑,卑之為尊,従此生矣。此国之所以衰而敵之所以攻之者也。
書き下し
夫れ一能く萬に應じ、方無くして之が務めを出だす者は、唯だ有道者のみ之を能くす。魯の鄙人、宋の元王に閉を遺る。元王國に號令して、巧有る者は皆來たりて閉を解け、と。人、之を能く解く莫し。兒說の弟子、往きて之を解かんことを請う。乃ち能く其の一を解き、其の一を解くこと能わず。且つ曰く、「解く可くして我解くこと能わざるに非ざるなり。固より解く可からざるなり。」之を魯の鄙人に問う。鄙人曰く、「然り。固より解く可らざるなり。我之を為りて其の解く可からざるを知るなり。今為らずして其の解く可からざるを知るや、是れ我より巧なり。」故に兒說の弟子の如きは、解かざるを以て之を解けるなり。鄭の大師文、終日瑟を鼓して興ち、其の瑟前に再拜して曰く、「我、子に效うは、窮せざるに效うなり。」故に大師文の若き者は、其の獸る者を之に先んずるを以て、之に中る所以なり。故に思慮は自ら傷うなり。智差は自ら亡ぼすなり。能を奮うは自ら殃いするなり。處する有るは自ら狂うなり。故に至神は逍遙すること倏忽にして、其の容を見わさず。至聖は習を變え俗を移して、其の從る所を知る莫し。世を離れ羣に別れて、而も同ぜざる無し。君は孤寡を名とすれども、障壅す可からず。此れ則ち姦邪の情得られて、險陂讒慝諂諛巧佞の人、由りて入ること無し。凡そ姦邪險陂の人は、必ず因ること有るなり。何に因るか。主の為に因る。人主、己を以て為すことを好めば、則ち職を守る者、職を舎てて主の為すことに阿る。主の為すことに阿りて、過有れば則ち主は以て之を責むること無く、則ち人主は日々に侵されて、人臣は日々に得。是れ宜しく動くべき者は靜かに、宜しく靜かなるべき者は動けばなり。尊の卑と為り、卑の尊と為るは、此れ從り生ず。此れ國の衰うる所以にして、敵の之を攻むる所以の者なり。
現代語訳
一つでよく万に応じ、決まったやり方によらずにその務めを果たせるのは、ただ道を体得した者だけができることだ。魯のいなか者が宋の元王に、結ばれて解けない知恵の輪を贈った。元王は国中に号令して、器用な者は皆来て解いてみよと言った。だが誰も解けない。弁論の名手兒説の弟子が解いてみたいと願い出て、一方は解けたがもう一方は解けず、しかもこう言った。解けるはずなのに私が解けないのではない、もともと解けないのだ、と。そこで魯のいなか者に問うと、いなか者は言った。そのとおり、もともと解けないのだ。私は自分で作ってみて解けないと知った。だが作らずに解けないと見抜いたとは、その者は私より器用だ、と。だから兒説の弟子のような者は、解かないことをもって解いたのである。鄭の楽長の文は、一日中瑟を弾いて立ち上がり、瑟の前に再拝して言った。私があなたに倣うのは、その尽きることのなさに倣うのだ、と。楽長の文のような者は、守るべき肝心を先んじたからこそ、的を射たのである。思慮をこらせばみずからを傷つけ、度を越した知はみずからを滅ぼし、才を誇示すればみずから災いし、我を張って居座ればみずから狂う。至上の神妙は自在に瞬時に去来してその姿を見せず、至上の聖は習俗を変えながら人にその出どころを知られず、世を離れ群を別ってもなお何とも隔てず、君主は孤・寡と自称してもへだてふさがれることがない。こうして姦邪の実情はつかまれ、ねじけた心・讒言・へつらい・悪賢さの持ち主が入り込む余地がなくなる。そもそも姦邪でねじけた者には、必ずつけ入るよりどころがある。何によるのか。君主のふるまいによるのだ。君主が自分であれこれ手を下すのを好めば、職を守るべき者は職を捨てて君主のふるまいにおもねる。おもねって過ちがあっても、君主はそれを責められず、こうして君主は日ごとに侵され、臣下は日ごとに得をする。これでは動くべき者が静まり、静まるべき者が動くことになる。尊い者が卑しくなり、卑しい者が尊くなるのは、ここから生じる。これこそ国が衰え、敵がつけ込む原因である。