呂氏春秋 / 樂成③
孔子始用於魯。魯人鷖誦之曰:「麛裘而韠,投之無戾;韠而麛裘,投之無郵。」用三年,男子行乎塗右,女子行乎塗左,財物之遺者,民莫之舉。大智之用,固難踰也。子產始治鄭,使田有封洫,都鄙有服。民相與誦之曰:「我有田疇,而子產賦之。我有衣冠,而子產貯之。孰殺子產,吾其與之。」後三年,民又誦之曰:「我有田疇,而子產殖之。我有子弟,而子產誨之。子產若死,其使誰嗣之?」使鄭簡、魯哀當民之誹訿也而因弗遂用,則國必無功矣,子產、孔子必無能矣。非徒不能也,雖罪施,於民可也。今世皆稱簡公、哀公為賢,稱子產、孔子為能,此二君者,達乎任人也。
新字:孔子始用於魯。魯人鷖誦之曰:「麛裘而韠,投之無戻;韠而麛裘,投之無郵。」用三年,男子行乎塗右,女子行乎塗左,財物之遺者,民莫之舉。大智之用,固難踰也。子産始治鄭,使田有封洫,都鄙有服。民相与誦之曰:「我有田疇,而子産賦之。我有衣冠,而子産貯之。孰殺子産,吾其与之。」後三年,民又誦之曰:「我有田疇,而子産殖之。我有子弟,而子産誨之。子産若死,其使誰嗣之?」使鄭簡、魯哀当民之誹訿也而因弗遂用,則国必無功矣,子産、孔子必無能矣。非徒不能也,雖罪施,於民可也。今世皆稱簡公、哀公為賢,稱子産、孔子為能,此二君者,達乎任人也。
書き下し
孔子始めて魯に用いらる。魯人鷖、之を誦して曰く、「麛裘して韠する、之を投ずるも戻無し。韠して麛裘する、之を投ずるも郵無し。」用いらるること三年、男子は塗右を行き、女子は塗左を行き、財物の遺ちたる者、民之を舉ぐる莫し。大智の用は、固より踰し難し。子産始めて鄭を治む。田をして封洫有らしめ、都鄙をして服有らしむ。民相與に之を誦して曰く、「我に田疇有り、而して子産之に賦す。我に衣冠有り、而して子産之を貯う。孰か子産を殺す、吾れ其れ之に與せん。」後三年、民又之を誦して曰く、「我に田疇有り、而して子産之を殖す。我に子弟有り、而して子産之を誨う。子産若し死せば、其れ誰をして之を嗣がしめん。」鄭簡・魯哀をして民の誹訿に當りて、因りて遂用せざらしめば、則ち國必ず功無く、子産・孔子必ず能くする無し。徒に能くせざるに非ざるなり。罪を施すと雖も、民に於て可なり。今の世皆簡公・哀公を稱して賢と為し、子産・孔子を稱して能と為す。此の二君は、人を任うるに達したればなり。
現代語訳
孔子が初めて魯で登用された。魯の人は歌って『鹿の子皮衣に膝掛けでも捨てて罪はない、膝掛けに鹿の子皮衣でも咎はない』と、格式にこだわらぬ良い政治を称えた。登用されて三年、男は道の右、女は道の左を歩いて秩序が整い、落し物も民は拾わなくなった。大いなる知恵の働きは、もともと人に理解させにくい。子産が初めて鄭を治めたとき、田に境界と溝を設け、身分に応じた服制を定めた。民は『我が田に子産は課税し、我が衣冠を子産は取り上げる。誰か子産を殺すなら、私も加わろう』と怨嗟の歌を歌った。だが三年後には『我が田を子産は豊かにし、我が子弟を子産は教え導く。子産が死ねば、誰が後を継げよう』と称える歌に変わった。もし鄭の簡公や魯の哀公が、民の非難のときに彼らを用い続けなかったなら、国に功績はなく、子産も孔子も有能でありえなかった。単に無能に終わるだけでなく、罪を負わせても民は納得したろう。今の世が簡公・哀公を賢と称え、子産・孔子を有能と称えるのは、この二君が人を用いる道に通じていたからである。