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呂氏春秋 / 侈樂②

凡古聖王之所為貴樂者,為其樂也。夏桀、殷紂作為侈樂,大鼓鐘磬管簫之音,以鉅為美,以眾為觀,俶詭殊瑰,耳所未嘗聞,目所未嘗見,務以相過,不用度量。宋之衰也,作為千鍾。齊之衰也,作為大呂。楚之衰也,作為巫音。侈則侈矣,自有道者觀之,則失樂之情。失樂之情,其樂不樂。樂不樂者,其民必怨,其生必傷。其(王)〔生〕之與樂也,若冰之於(炎日)〔炭〕,反以自兵。此生乎不知樂之情,而以侈為務故也。

新字:凡古聖王之所為貴楽者,為其楽也。夏桀、殷紂作為侈楽,大鼓鐘磬管簫之音,以鉅為美,以眾為観,俶詭殊瑰,耳所未嘗聞,目所未嘗見,務以相過,不用度量。宋之衰也,作為千鍾。斉之衰也,作為大呂。楚之衰也,作為巫音。侈則侈矣,自有道者観之,則失楽之情。失楽之情,其楽不楽。楽不楽者,其民必怨,其生必傷。其(王)〔生〕之与楽也,若冰之於(炎日)〔炭〕,反以自兵。此生乎不知楽之情,而以侈為務故也。

書き下し

凡そ古の聖王の樂を貴ぶ所為は、其の樂しきが為なり。夏の桀・殷の紂の侈樂を作為するや、鼓鐘磬管簫の音を大にし、鉅を以て美と為し、衆を以て觀と為し、俶詭殊瑰、耳未だ嘗て聞かざる所、目未だ嘗て見ざる所、務て以て相過ぎ、度量を用いず。宋の衰うるや、千鍾を作為し、齊の衰うるや、大呂を作為し、楚の衰うるや、巫音を作為す。侈は則ち侈なり。有道の者自り之を觀れば、則ち樂の情を失えり。樂の情を失えば、其の樂は樂しからず。樂、樂しからざれば、其の民は必ず怨み、其の生は必ず傷わる。其の生の樂に與けるや、冰の炎日に於けるが若く、反って以て自ら兵す。此れ樂の情を知らざるに生じ、而して侈を以て務と為すが故なり。

現代語訳

いにしえの聖王が音楽を貴んだのは、それが真に楽しいものだったからだ。夏の桀王や殷の紂王は贅沢な音楽を作り、太鼓・鐘・磬・管・簫の音を大きくし、巨大さを美とし、数の多さを見ものとし、奇怪で珍奇なもの、耳に聞いたことも目に見たこともないものを、競って度を越して求め、節度を用いなかった。宋が衰えたときには千鍾という大鐘を作り、斉が衰えたときには大呂という巨大な鐘を作り、楚が衰えたときには巫音という俗な祭祀音楽を作った。贅沢は確かに贅沢だが、道を体得した者から見れば、音楽の本質を見失っている。本質を失えばその音楽は楽しくなく、楽しくなければ民は必ず怨み、その生は必ず損なわれる。生命と音楽の関係は、氷を炎天にさらすようなもので、かえって自らを傷つける。これは音楽の本質を知らず、贅沢を事とするから起こるのだ。

解説

暴君や衰亡した国が作った過剰な音楽を具体例に挙げ、贅沢が滅びを招くと論じた段です。桀・紂の巨大で奇をてらった音楽、宋の千鍾、斉の大呂、楚の巫音――いずれも大きさや珍奇さ、数の多さを競い、節度を失った例として並べられます。道を得た者から見ればそれらは音楽の本質を見失っており、本質のない音楽は民を怨ませ、命を炎にさらす氷のように国を自滅させるといいます。文化の爛熟や奢侈を衰亡の兆しとみる歴史観がここにあります。豪華さや規模の追求が必ずしも豊かさや幸福につながらず、かえって足元を崩しうるという指摘は、際限なき拡大を求めがちな現代への警鐘としても読めます。

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