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呂氏春秋 / 勸學②

凡說者,兌之也,非說之也。今世之說者,多弗能兌,而反說之。夫弗能兌而反說,是拯溺而硾之以石也,是救病而飲之以菫也,使世益亂;不肖主重惑者,從此生矣。故為師之務,在於勝理,在於行義。理勝義立則位尊矣,王公大人弗敢驕也,上至於天子,朝之而不慚。凡遇合也(合)不可必,遺理釋義以要不可必,而欲人之尊之也,不亦難乎?故師必勝理行義然後尊。

新字:凡説者,兌之也,非説之也。今世之説者,多弗能兌,而反説之。夫弗能兌而反説,是拯溺而硾之以石也,是救病而飲之以菫也,使世益乱;不肖主重惑者,従此生矣。故為師之務,在於勝理,在於行義。理勝義立則位尊矣,王公大人弗敢驕也,上至於天子,朝之而不慚。凡遇合也(合)不可必,遺理釈義以要不可必,而欲人之尊之也,不亦難乎?故師必勝理行義然後尊。

書き下し

凡そ説くとは、之を兌するなり、之を説ばすに非ざるなり。今の世の説く者は、多く兌する能わずして、反て之を説ばしむ。夫れ兌する能わずして反て説ばすは、是れ溺るるを拯わんとして、之に硾するに石を以てするなり。是れ病ねるを救わんとして、之に飲ましむるに堇を以てするなり。世をして益々亂れしめ、不肖の主をして重ねて惑わしむる者、此れ從り生ず。故に師為るの務は、理に勝すに在り、義を行うに在り。理勝り義立てば則ち位尊し。王公大人も、敢て驕らざるなり。上は天子に至るまで、之に朝して慚とせず。凡そ遇とは合なり。合は必とす可らず。理を遺て義を釋てて、以て必とす可からざるを要め、人の之を尊ぶことを欲するは、亦た難からずや。故に師は必ず理に勝し義を行い、然る後に尊ばる。

現代語訳

そもそも「説く」とは、相手の心を深く喜ばせ納得させることであって、うわべを喜ばせることではない。今の世で説く者は、多くが深く納得させることができず、かえってうわべを喜ばせている。深く納得させられずにうわべを喜ばせるのは、溺れる者を救おうとして石の重りをつけるようなもの、病人を救おうとして毒草を飲ませるようなものだ。世をますます乱れさせ、愚かな君主をさらに惑わせるものは、ここから生じる。ゆえに師たる者の務めは、道理を究めて相手に勝らせることと、道義を行うことにある。道理が勝り道義が立てば、地位は尊くなる。王公や高位の人も、あえて師に対しておごり高ぶることはなく、上は天子に至るまで、師のもとに参じて恥じることがない。そもそも「遇(めぐりあい)」とは「合(巡り合わせ)」であり、巡り合わせは当てにできない。道理を捨て道義を投げ出して、当てにならない幸運な巡り合わせを求め、人に尊ばれようと望むのは、なんと難しいことではないか。ゆえに師は必ず道理を究め道義を行い、そうして初めて尊ばれるのである。

解説

この段は、人を教え導く「説く」ことの本質を、うわべを喜ばせることと深く納得させることの違いから論じます。表面的に喜ばせるだけの教えは、溺れる者に重りをつけ病人に毒を飲ませるようなもので、かえって世を乱すという比喩が要点です。師の務めは道理を究め道義を行うことにあり、それができれば身分にかかわらず天子までもが敬意を払うと説きます。背景には、教える者の権威は偶然の巡り合わせや世渡りではなく、内実によって支えられるべきだとする考えがあります。現代でも、聞き手に迎合して耳当たりよくするだけの説明と、本質を理解させる教えとは違うという指摘は示唆に富み、指導や発信の責任を問い直す教訓として読めます。

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