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呂氏春秋 / 勸學①

先王之教,莫榮於孝,莫顯於忠。忠孝,人君人親之所甚欲也。顯榮,(人子人臣)〔人臣人子〕之所甚願也。然而人君人親不得其所欲,(人子人臣)〔人臣人子〕不得其所願,此生於不知理義。不知(義理)〔理義〕,生於不學。學者師達而有材,吾未知其不為聖人。聖人之所在,則天下理焉。在右則右重,在左則左重,是故古之聖王未有不尊師者也。尊師則不論其貴賤貧富矣。若此則名號顯矣,德行彰矣。故師之教也,不爭輕重尊卑貧富,而爭於道。其人苟可,其事無不可,所求盡得,所欲盡成,此生於得聖人。聖人生於疾學。不疾學而能為魁士名人者,未之嘗有也。疾學在於尊師,師尊則言信矣,道論矣。故往教者不化,召師者不化,自卑者不聽,卑師者不聽。師操不化不聽之術而以(疆)〔彊〕教之,欲道之行、身之尊也,不亦遠乎?學者處不化不聽之勢,而以自行,欲名之顯、身之安也,是懷腐而欲香也,是入水而惡濡也。

新字:先王之教,莫栄於孝,莫顕於忠。忠孝,人君人親之所甚欲也。顕栄,(人子人臣)〔人臣人子〕之所甚願也。然而人君人親不得其所欲,(人子人臣)〔人臣人子〕不得其所願,此生於不知理義。不知(義理)〔理義〕,生於不學。學者師達而有材,吾未知其不為聖人。聖人之所在,則天下理焉。在右則右重,在左則左重,是故古之聖王未有不尊師者也。尊師則不論其貴賤貧富矣。若此則名号顕矣,徳行彰矣。故師之教也,不争輕重尊卑貧富,而争於道。其人苟可,其事無不可,所求尽得,所欲尽成,此生於得聖人。聖人生於疾學。不疾學而能為魁士名人者,未之嘗有也。疾學在於尊師,師尊則言信矣,道論矣。故往教者不化,召師者不化,自卑者不聴,卑師者不聴。師操不化不聴之術而以(疆)〔彊〕教之,欲道之行、身之尊也,不亦遠乎?學者処不化不聴之勢,而以自行,欲名之顕、身之安也,是懐腐而欲香也,是入水而悪濡也。

書き下し

先王の教えは、孝より榮なるは莫く、忠より顯なるは莫し。忠孝は、人君人親の甚だ欲する所なり。顯榮は、人子人臣の甚だ願う所なり。然れども人君人親、其の欲する所を得ず、人子人臣、其の願う所を得ず。此れ理義を知らざるより生ず。理義を知らざるは、學ばざるより生ず。學ぶ者、師達して材有れば、吾未だ其の聖人為らざるを知らず。聖人の在る所は、則ち天下理る。右に在れば則ち右重く、左に在れば則ち左重し、是の故に古の聖王、未だ師を尊ばざる者有らざるなり。師を尊ぶには則ち其の貴賤貧富を論ぜず。此くの若くなれば則ち名號顯われ、德行彰わる。故に師の教えたるや、輕重尊卑貧富を争わずして、道を爭う。其の人苟くも可なれば、其の事、可ならざる無く、求むる所盡く得、欲する所盡く成る。此れ聖人を得るより生ず。聖人は學に疾むるより生ず。學に疾めずして、能く魁士名人と為る者は、未だ之れ嘗て有らざるなり。學に疾むるは師を尊ぶに在り。師尊ぶるれば則ち言信ぜられ、道論ぜらる。故に往きて教うる者は化せず、師を召す者は化せられず。自ら卑くする者は聽かれず、師を卑しむ者は聽かず。師、化せず聽かれざるの術を操りて、以て彊いて之を教え、道の行われ、身の尊ばるることを欲するも、亦た遠からずや。學ぶ者、化せられず聽かざるの勢に處りて、以て自ら行い、名の顯われ、身の安からんことを欲するや、是れ腐を懐きて香を欲するなり。是れ水に入りて濡るることを惡むなり。

現代語訳

先王の教えでは、孝ほど誉れあるものはなく、忠ほど顕彰されるものはない。忠孝は君主や親が切に望むものであり、顕彰と栄誉は子や臣下が切に願うものである。ところが君主や親がその望むものを得られず、子や臣下がその願うものを得られないのは、道理と道義を知らないことから生じる。道理と道義を知らないのは、学ばないことから生じる。学ぶ者について、師が道理に達していて本人にも素質があれば、その人が聖人にならないとは私には思えない。聖人がいるところでは天下は治まる。聖人が右にいれば右が重んじられ、左にいれば左が重んじられる。だから古の聖王で師を尊ばなかった者はいない。師を尊ぶにあたっては、その貴賤や貧富を問わない。こうであれば名声は顕れ、徳行は明らかになる。ゆえに師の教えというものは、身分の軽重・尊卑・貧富を争うのではなく、道を究めることを競うのである。その人がもし立派であれば、その事もうまくいかないことはなく、求めるものはすべて得られ、望むものはすべて成る。これは聖人を得ることから生じる。聖人は学に励むことから生まれる。学に励まずに名士・名人になれた者は、いまだかつていない。学に励むには師を尊ぶことにある。師が尊ばれれば、その言葉は信じられ、道が説かれる。ゆえに自分から弟子のもとへ出向いて教える者は相手を教化できず、へりくだって師を招く者も教化されない。自分を卑しくする者(=出向く師)は聞き入れられず、師を軽んじる者は師の言を聞かない。師が、教化できず聞き入れられないやり方でむりやり教え、道が行われ我が身が尊ばれることを望んでも、なんと的外れではないか。学ぶ者が、教化されず聞かない態度でありながら勝手にふるまい、名が顕れ身が安泰であることを望むのは、腐ったものを抱えて香りを求めるようなもの、水に入りながら濡れるのを嫌うようなものである。

解説

この段は、忠孝や栄誉といった人が望むものは学ぶことによって初めて得られると説き、その学びの要が師を尊ぶことにあると論じます。師が道理に通じ本人に素質があれば聖人にもなれ、聖人がいれば天下は治まる。だから古の聖王はみな身分を問わず師を尊んだ、というのが要点です。背景には、学問と道徳を政治の根幹に置く儒家的な発想があり、師弟関係を単なる知識の伝授ではなく人格形成の営みと見ています。師を軽んじたり教える側がむりに押しつけたりすれば学びは成り立たない、という双方向の戒めも印象的です。現代でも、学ぶ姿勢と教える側への敬意がそろって初めて成長が生まれるという、教育の本質を突いた教訓として読むことができます。

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